天の月、仰ぎて

 ただ、役割を果たすためだけの存在。
 数多の群神の中の一。

 それが、己が存在意義と思っていた。
 神将・迦楼羅王の眷属として、護法のために、魔を調伏する。
 以前は、それだけを考えていた。

 月下の薬草園で、伸ばされた手を取るまでは。

「…………」
 色鮮やかな光が彩る、天界の空。その光彩をぼんやりと見つめつつ、僅か、
息を吐く。金色の瞳には、どこか物憂げな陰り。嘆息する仕草もその陰りも、
以前の彼からは想像もつかない、と言えるだろう。
 変化の契機は数ヶ月前。
 王の元へ届けられた一通の書簡だった。
 王がその時に何を意図していたかは定かではないものの、その書簡に記され
ていた招待に応じる命を受けて出向き、そして帰って来た時。
 彼はそれまでの彼とは、どこか違っていた。
 変化の理由は王にのみ知らされ、王はその理由を何者にも明かさず。
 彼に何が起きたのかは一族の間で様々な憶測を呼んだものの、当人が黙して
語らぬ事もあり、やがて、気にかける者は自然に、絶えた。
 す、と手を空へと向ける。ここで手を伸ばしたとて、届かぬのは承知の上で。
 本来であれば縁を結ぶ事は元より、出会う事すら有り得ぬはずの、白蛇の姫。
 いつ惹かれたのかと問われても、確たる答えを出す事は叶わない。
 気づけば惹き付けられ、言葉を重ね、共にある内に心奪われた、としか言え
ぬのだから。
「……まったく……」
 ふ、と。口の端に笑みらしきものがよぎる。瞳に僅か覗いていた陰りは、い
つの間にか失せていた。
 自分にこんな変化が訪れた事もさる事ながら、それを『受け入れた』という
事実。
 それはそれ以前の自分からは全く想像もできぬため、妙な可笑しさが募り、
また笑みがこぼれる。
 そんな仕種──苦笑したり、物思いに耽ったり、というような変化からして、
以前は全く縁遠かったのだが。
 しかし、それでも。
 その変化は決して不快な物ではなく、むしろ心地良くあるのだが。
 しかし、その心地良さは同時に、今の状況への寂寥感のようなものも募らせ
る。
 本来、共にある事のない種に属する者同士。
 想いは通えど、しかし、常に共にある事は叶わない。
 彼は天界にあり、神将の眷属としての務めを果たさねばならず、そして、想
う人は天界へ赴く事は叶わないのだ。
 覚悟の上の選択肢とは言え、こうして窓辺で天を見つつ、遠くにある人を想
うのは、さながら、天の星を想うにも似て。
 ……その発想が自分を月と見立てていた彼女の事を、鮮烈に思い起こさせ、
心中の複雑さをいや増した。

「……」

 天へ、向けた手を。
 何かを掴むように、握り締めつつ、目を閉じる。
 閉じた目を再び開いた時、金の瞳は静かな光を湛え、天を見据えていた。

「そろそろ、出陣に備えんとな……」

 小さな呟きが、零れ落ちる。
 あと数刻もしない内に、彼は戦場へと向かう。己がなすべき事、妖かしの調
伏の勤めを果たすために。

「……それが、終われば……」

 逢いに行ける。
 勤めを一つ果たしたら、逢いに行くと。そう、約束したのは彼自身なのだか
ら。
 だから今は、寂寥感を忘れ、感傷を退けて。
 神将の眷属として、なすべき事を果たす。

 ……そんな決意を、金の瞳に宿して。
 彼は静かに、窓辺を離れて歩き出した。
 
 ……数日後、満月の夜。
 金色の翼を持つ影が同じ色の光を舞わせつつ、地上へと向かった。

 黄金の月を待つ、白い星の住まう淵を目指して。



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