This lie is that truth

 それは、どんなに強く求めていたとしても。
 実際に、触れてはならない、と常に自戒していた。

 正気と、狂気。

 相反する物を同時に与えてくれる、愛しさと恐ろしさの混在した存在は……。

「じゃぁ……僕のこと抱いてくれる……?」

 真顔で問いかけて、人を仰天させてくれた。
 その直前に怪しい薬を盛られていた事を差し引いても、そこで拒めるほどに
は、狂気への恐れは強くない。
 いや、むしろ、独占する事で更なる狂気の深みへ沈むのも、悪くないとさえ
思った。

 俺を捕えて離さない狂気とは即ち、文字通りの『狂おしいまでの愛しさ』。
それに、他ならないのだから……。

「……あ」
 予想通り、と言うべきだろうか。今まで一度も見せた事のなかった左の肩を
見るなり、ラッセルは短く声を上げて眉をひそめた。
 俺の左肩には、古い傷痕がある。明らかに、鋭い爪で裂かれたとわかる、歪
な痕。今まで、これを人目に晒した事は一度もなかった。
「……ハーくん、これ……」
「ああ……気にしない」
「気にするよ。これ、誰かに傷つけられたんでしょ? あ、それに……ここに
も?」
 はぐらかそうとするもののさすがに上手く行かず、更に、もう一つの傷痕に
も気づかれたらしい。不安げな声と共に、首筋に手が触れてきた。
 首筋、ちょうど頚動脈がある辺り。そこにも、同じくらい古い傷痕がある。
肩のそれとは対照的に、何か鋭利な物で切り裂いたような、痕。
 二つの傷痕は、どちらも致命傷となり得ていたのは一目瞭然。昔から、俺が
ちょっと怪我をしただけで大騒ぎをしていたラッセルにしてみれば、大事……
なのかも知れない。
「そんな顔、しない……古い傷だし、痛むわけでもない。それに、肩の方はつ
けた相手ももう、いないんだから」
 不安げな陰りが苦しくて、苦笑しながらこんな事を言う。
「そうなの? ……じゃあ、こっちは?」
 釈然としない様子のまま、ラッセルは問いを重ねてくる。それに対する答え
は、耳元に、教えない、と囁きで落とした。
「なんで?」
「お前、絶対、泣くから」
 冗談めかして言いはしたけど、それはほぼ、確信に近い。
 肩の傷は、人狼につけられたもの。それと共に、狂気の種を植え付けられた。
 そして、首筋の傷は──自ら、つけたもの。
 言えば、余計な不安を与えるのは目に見えている。
 いつかは話すかもしれないが、今は、そんな暗い過去話をしたい気分じゃな
いから。

 ずっと望みつつ、同時に忌避していたもの。
 それを得られるという時に、なんで、余計な言葉が必要になる?

 そう思ったから、それ以上、話を続ける気はなくて。
「それに、この傷がついたから、俺は今、ここにいるんだ……でなければ……」
「……でなければ、なに?」
「出会えなかったし。狼に与えられた狂気で、身を滅ぼしていたのは間違いな
い……だから、いいんだ……気にしなくて……」
 囁きながら、ゆっくりと、熱を高めて。
 余計な言葉を、意識から追い出させる。

 求めているのは、存在。そこから得られる温もり。
 その温もりは、ともすれば途切れてしまう正気を繋ぎ止め、俺が人である事
を思い出させる。
 反面、それと共に高まる愛しさが狂気をかき立て、その深みへ堕ちる速度を
速める。
 人として生きる希望は、同時に、狂気を導く絶望。
 でも、そんな矛盾は正直、どうでもいい。
 人とてして生きるにしろ、狂人として生きるにしろ、俺が俺として存在する
ために必要不可欠な存在。
 大切なのは、その事実だけ、だから。

 今でこそ、自分を狂っている、と素で言ってはいるが、俺は元々狂人ではな
かった……と思う。
 だからって、普通の人間でもなく……ああ、そうだ。
 ついこの間まで、それを装っていた……占い師だった時期も、確かにあった。
 もっとも、その力だって最初から持っていたのか、何かの弾みで押し付けら
れたのか、判別はつかないけど。
 そもそもの始まりは、古ぼけた一組のカード。
 雨宿りに飛び込んだ骨董品の店で偶然見つけたそれは、不思議と俺を惹きつ
けた。そしてその感覚に引き寄せられるまま、捨て値同然で譲り受けたそのカ
ードを手にした事が、俺の未来を大きく変えた。
 カードにその力があったのか、俺自身にその力があったのかは、知らない。
わかっているのは、カードを手にした事で、俺は人狼を見分ける力を得た、と
いう事。
 そして、その力があるが故に、人狼に狙われた。

 当時の俺は、根暗な文学少年、というヤツで。
 両親が共働きという環境もあってか、人付き合いよりも図書館に引きこもる
方が好きだった。
 周りから一線を引かれ、自分も周囲に壁を作る。
 そんな、不毛な俺を気遣う女性が一人、いた。
 大アルカナを手に入れたのとほぼ同時期に隣に越してきた彼女は、亡くした
子供に似ているからとか、そんな理由で何かと俺を気遣い、いつの間にか、俺
も両親も彼女に気を許すようになっていた。

 それが策略であるとは、露ほども思わずに。

 彼女が越してきて三ヶ月ほど過ぎた頃、人狼による襲撃が始まった。
 その頃には、比較的周囲に馴染んでいた俺は、ごく自然に自分の力について
周囲に知らせていた。
 人の──いや、彼女の役に立ちたい。
 そんな、子供っぽい純情の赴くままに。
 だが、用意されていた結末は、最悪のものだった。

「ラヴァーズの……逆位置?」

 彼女を占う事になり、引いたカードはラヴァーズ。
 そして、対象の正体を示唆するカードの向きは、逆位置。
 ……その結果を見た時、身体が震えた。
 それが示していたのは、彼女が人狼である、という現実だったから。
 その時点で既に、正しい力の持ち主と認識されていた俺の判定に異を唱える
者はなく、彼女の処刑はすぐに決まった。

 そして、処刑の直前。

「……迂闊だったわね」

 俺の前に立った彼女は、艶やかに微笑みながらこう言った。
「下手に信用を得ようとして、情が移ったのかしらねぇ? ……もっと早く」
 ここで彼女は一度言葉を切り、直後に、衝撃が左肩から胸へ向けて駆け抜け
た。
「もっと早く、殺しておけば良かったのにね……本能の赴くまま、喰らってお
けば良かったわ。最初から、そうするつもりだったのだから」

 紅い色彩にその身を染めつつ、彼女はこう言って笑った。
 その紅い色彩が、自分の血のそれと気づくまで時間がかかり、理解した直後
に意識が闇に落ちた。
 そして、それから三日三晩の間、俺は昏睡状態に陥ったらしい。
 それでも、最後の人狼だった彼女を処刑した事で村は救われ、目を覚ました
時、周囲の空気は穏やかだった。
 俺の身に起きた事は両親にも衝撃を与えたらしく、母は仕事を休んで俺を気
遣ってくれた。

 だけど。
 その穏やかさや優しさは、何故か、酷く息苦しかった。
 それが傷つけられた時に植えつけられた物──狂気の種によるものだと気づ
いたのは、目覚めてから一ヵ月後の事だった。
 目覚めてからずっと、言葉で表せない息苦しさに苛まれていて、何とかそこ
から逃れる術を探し続けていた。
 ……そんな時に、ふと目に付いたのが、人狼騒動が終わってから手を触れず
にいたカード。
 何気なく手に取ったそれは、ひんやりと冷たくて。
 ……人の身体を簡単に引き裂けそうな鋭利な煌めきに、言いようもなく惹き
つけられた。

 ……これを身体に当てて引いたら、切れるかな?

 確か、そんな事を考えていた気がする。
 冷静に考えればなんだそりゃ、と突っ込めるようなその思考に対しての疑問
は全く浮かばず、俺は束の中からカードを一枚引き抜いた。
 無作為に抜き出されたカードは、ハングドマン。
 それを頚動脈に当て、力を入れて引く。

「……っ!? ハーヴ!! 何をしているのっ!?」

 ……紅い色彩が見えるのと前後して絶叫が聞こえ、そして。

──おいで。こちら側へ。おいで──

 意識の奥で、何かがこう囁いた。

 それから色々と揉め事やら何やらあったらしいが、その結果、俺は父方の祖
父に預けられる事になった。
 田舎で古書に囲まれ、一人でのんびりと暮らしている祖父の所で、精神的な
療養をさせる。
 それが、人狼退治の功労者である俺を、当たり障りなく隔離するために考え
られた理屈だった。
 別に、それで構わない、と思った。
 自分が狂気に侵食されて壊れるのは気にならなかったけど。
 俺が壊れるのに周囲が巻き込まれるのはいい気がしなかったから。
 そして、俺はここに──今居る村へとやって来た。祖父は何も言わずに俺を
受け入れ、それまではやろうとも思わなかった事──料理や畑仕事、庭弄りな
どの『日常的な事』を教えてくれた。
 それまでは接点すらなかった多くの事は、多少は狂気を押さえ込み、俺はそ
れなりに村に適応していく事ができた。
 そして、祖父の死後。俺はその遺産──家と土地と古書しかなかったが──
を譲り受け、一人暮らしを始めた。
 土地に上手く馴染めていた事もあったし、それに、両親の元に帰ってどうに
か、という年齢でもなくなっていたから、というのが表向きの理由。本音では、
かれこれ七、八年離れていた親元に戻ってもぎくしゃくするのが目に見えてい
たから、という事と、それから、もう一つ──。

「……ハーヴェイ、いるー!?」

 一日一回、ほぼ確実に。こう言って駆け込んでくる者の存在が、ここを離れ
る事に二の足を踏ませていた。
「……まったく」
 飛び込んできた声にふと我に返り、読み止しの本を閉じて、玄関へと向かう。
ドアを開けると、そこには息を切らせたラッセルが立っていた。
「あ、良かった! あ、あのさっ……」
「また課題の手伝いか?」
 言いかけた言葉の先を読んでこう言うと、ラッセルは一瞬言葉に詰まる。ど
うやら、図星だったらしい。
「全く……お前、それでどうするんだ? いつまでも、俺が手伝えるとは限ら
んのに……」
 その反応にほんの一瞬笑みをもらした後、すぐさま表情を切り替えてこう言
い放つ。この言葉に、ラッセルはええっ!? とやや大げさな感じの声を上げた。
「そ、そんな事、言わないでよぉ〜!」
「わからないだろ、この先がどうなるかなんて……ま、とにかく入れ。雲行き
も怪しいし、さっさと片付けた方がいいだろ」
 さらりと言いつつ、茶を淹れるために台所へと向かう。ラッセルはそれはそ
うだけど、とかぶつぶつと言いつつ、ドアを閉めてついてきた。
 週末は大体いつもこんな感じで、ラッセルは課題を片付けるために、と俺を
頼ってやって来るのが常だった。いつも当たり前に繰り返されてる、日常。た
だ、そんな何気なさが、狼に植え付けられた狂気を押さえ込むのに最も有効な
のも確かだった。
 だから、この日も特に何か気にかける事無く、いつものように紅茶と菓子を
出して、古書読みをしながら、躓いた所にチェックを入れてやる。そんな、い
つもと変わらぬ時間を過ごすつもりだった。
 ……何気なく投げかけた言葉が、思わぬ事態へ繋がる事など、予想だにせず
に。

 異変らしきものに気がついたのは、いつもなら課題が終わっている頃合の時
間だった。
「……どした。進みが遅いぞ、今日は?」
 そんなに難しい数式が出ている訳でもないのに、問題が解かれるペースはい
つもより遅い。それを訝しんで問うと、ラッセルはそうかな? と小声で返し
てきた。
「ああ。そろそろ夕飯の準備を考える時間なのに、まだ終わってないって、い
つもに比べたら断然進んでないぜ? 別に、問題もさして難しくないのに」
 テキストをつつきながら指摘するが、返って来るのはうん、という生返事。
らしくない様子を怪訝に思いつつ、俺は古書を閉じて立ち上がった。
「まあ……いいや。夕飯作ってくるから、その間に少しでも頑張れ。な?」
 ぽんぽん、と軽く頭を叩いてこう言い置くと、俺は台所へと向かう。いつも
は一人なんで食事は簡単に済ませるんだが、二人となると、それなりに考えな
きゃならない。さて、どうしたものか……と思いつつふと窓の外を見やると、
いつの間にかぽつぽつと雨が降り出していた。
「……降ってきたか……」
 あんまり遅くなるようなら、泊めてやるようか……、などと考えつつ、料理
にかかる。少し時間をかけ、何とか集中させようか、と思ったものの、食事の
準備が整っても課題は進んだ様子はなかった。ついでに、雨も大分強くなって
いる。
「……こら。今日は、心ここにあらずでどーした?」
 ぼんやりとしている頭を軽く小突くと、ラッセルははっとしたように顔を上
げた。
「え? そ、そんな……そんな事、ないよっ!?」
「それにしちゃ、ぼーっとしすぎだ。このままだと、今日は徹夜でしごきの展
開になるぜ?」
「徹夜でっ!? ……そ、それならそれでも、いいけど……」
「こら、妥協するな。取りあえず夕飯食べて……そこから、できるだけ頑張れ。
いいな?」
「あー……うん」
 苦笑しながらの言葉にラッセルはこくん、と頷くが、その表情はどことなく、
沈んでいるようにも見えた。

 ……結局、ラッセルの課題が片付いたのはだいぶ夜遅くなってからだった。
その頃には、雨はどしゃぶり。さすがに走って帰れとは言い難い状況だった。
「徹夜は免れたが、こりゃ、泊まりだな……家の方、大丈夫か?」
 窓を叩く雨の勢いを確かめてから問うと、ラッセルはうん、と頷いた。
「家の親、今日は泊まりがけででかけてるから、問題ないよ。戸締りはちゃん
としてきたしね」
「……お前、最初から、家で夕飯食べる魂胆だったな?」
 その返事に呆れた口調でこんな事を言うと、ラッセルはあはは、と笑う。ど
うやら、図星だったらしい。
「っとに……」
「だって、ハーヴェイのご飯、美味しいからさー」
「そういう問題かっ!? ……ま、お前が料理を作ると恐ろしい事になるのは、
目に見えてるから、いいと言えばいいが」
 ため息と共に言いつつ、ずっと読んでいた古書を閉じる。ラッセルもテキス
トやノートを片付け、そこで、唐突に会話が途切れた。
 俺は元々、自分から喋る方じゃない。どちらかと言うと、人が話しているの
に答える事の方が多いんだ。だから、ラッセルが黙ってしまうと、自然、会話
は途切れてしまう。
「……あのさ」
 雨音だけが響く沈黙を経て、ラッセルが小声で問いかけてきた。
「ん?」
「さっきの……冗談、だよね?」
「……さっきの……って?」
 問われた言葉の意味が掴めずに問い返すと、ラッセルは俯いてえっと、と口
ごもった。
「……さっきの……いつまでも、手伝えるとは限らない……って言うの」
 それから、恐々、という感じでこう問いかけてくる。
「ああ。でも、実際どうなるかは、わかんないだろ? これから先……まあ、
例えば、俺が結婚とかしたら。そうも行かなくなるんだし」
 結婚。まずあり得ないが、それが一番手っ取り早いと思ったんで例えに上げ
ると、ラッセルは何故かえ、と言って表情を強張らせた。
「結婚って……」
「物の例えに決まってるだろうが。大体、そんな酔狂者がいるかよ」
 不安げに問いかけてくるのをさらりと受け流す。ここに来た経緯は公にはし
ていないが、訳アリなのは村の住人は皆気づいている。そんな俺に縁談を持っ
てくる酔狂者はいないだろうし、俺自身、過去の経緯から女と絡むのは避けて
いた。
「え、だって……わかんないじゃん、ハーヴェイ、結構女の子のウワサに上が
ってるし……」
「そうかも知れんけど……とにかく、お前が課題に手助けがいる間は、多分問
題ないから。こんな事で、真剣に悩むなよ」
 苦笑しつつこう言うと、ラッセルはうん、と頷いた。俺はやれやれ、と呟い
て立ち上がる。
「じゃ、泊まれるように準備してくるから。ちょっと、待ってろ」
 ぽんぽん、と頭を軽く叩いてからこう言って、居間を出る。準備、と言って
も予備の寝具で俺の部屋にもう一つ寝床を確保する程度なんだが。祖父の部屋
は物置状態なんで、すぐに人が寝れるようにはできない。まあ、男同士だし問
題はないだろう……なんて、この時は軽い気持ちだった。
「準備できたぞ……って、ラッセル?」
 部屋を簡単に片付けて寝床を作り、居間に戻るとラッセルはテーブルに突っ
伏していた。どうやら、眠ってしまったらしい。
「……何やってんだか、こいつは……」
 呆れたように呟く。まさか、あの程度の問題で疲れたんじゃあるまいに、と
思いつつも、このままにはしておけない。
「ラッセル……おい、こら。こんな所でうたた寝するんじゃない」
「……ん……」
「こらって……っとに、仕方ないな」
 揺さぶっても起きそうにない様子にため息をつきつつ、寝床まで運んでやる
か、と抱え上げる。男を姫様抱っこする、というのも何だかな、などとふと思
った、その時。

「……やだ……よ……」

 かすれた呟きが、耳に届いた。
「……は?」
 突然の事に、戸惑いながら抱え上げたラッセルを見る。とはいえ、どうやら
寝言……らしい。
「何なんだ、いきなり……?」
 訝しげに呟きつつ、部屋に連れて行く。取りあえず、寝床に放り込めばいい
だろう、と気楽に考えて。

 それは結論としては間違っていなかったし、最終的にはそうした訳だけど。

 ただ……。

「よっと……お?」
 床に作った寝床に放り込もうとした矢先に、俺はある事に気がついた。一体
いつの間に掴んだのか、ラッセルの手がこっちの胸元をしっかりと握り締めて
いた。
「……おいおい……どうしたってんだ、今日のこいつは……」
 呆れを込めて呟きつつ、手を離させようとした時、

「はーくん……はなれちゃ……やだよ……」

「……っ!?」
 そのタイミングを待ち受けてでもいたかのような呟きが、俺を硬直させた。
「な……何言って……寝ぼけてる、のか?」
 そうであって欲しい、と思いつつ、顔を覗き込む。眠っているのは、間違い
ない……感じだけど。
「ラッセル……? おい?」
 ……返事は、ない。
「……寝言、だな。寝言。っていうか、一体、何の夢見てんだか……」
 それで自分を納得させようとしたのに。
 直後に、止めとも言うべき言葉が、耳に届いた。

「……ずっと、一緒に……いて……よ……」

「……」

 何を、どう言えと。

 それが、率直な感想。
 男が男にいう言葉なのか、とか、色々、突っ込みたい所はある。
 ……あるんだが、そんな冷静な突っ込みは、すぐには思いつかなかった。
 突っ込みよりも先に、今の訴えへの答えの方が浮かんできて、そんな自分に
戸惑っていたから。

 離れないし、一緒にいる。

 何故か、浮かんできたのは、それ。

「……俺……一体?」
 わからない。唐突過ぎて、わからない。

 確かに、ラッセルといると、精神的には救われる。
 隙あらば飲み込もうとする狂気の支配が、かなり緩むから。
 だからこそ、何だかんだといいながらも課題を手伝ったりして、一定の距離
を保っていた。

 ……でも、それだけのつもり……だった。

 それ以外の何かを求める事は、いくらなんでも許されない。
 そう……思っていたから。
 なのに……。

「なんだって……この、バカ……」

 ため息と共に、こんな言葉が口をつく。
 言われなければ、気づく事などなかったのに。
 今のままの……穏やかな距離でいられたのに。

「……どうしろって、言うんだよ……?」

 気づいた物から目を逸らすのは簡単。ただ、距離を取ればいいだけの事。
 しかし、それは同時に狂気の侵食を抑える手段を手放す、という事になる。
 だからと言って、気づいた物を認め、受け入れるのも正気の沙汰じゃ……。

「……ん?」

 正気の沙汰じゃない。
 つまりは、狂気?
 既に狂気を抱えている自分が、何故、今更狂気を怖れる必要がある……?

「……どうせ、狂う定めなら……」

 不本意に押し付けられた物よりも、自分の内から生じた物に堕ち、溺れた方
がいい。
 その考えは、ごく自然に浮かんできた。
 少なくとも、今気づいた物──いつの間にか積みあがっていた愛しさは、不
本意なものではないのだから。
 その結論に達した時、ごく自然に、笑みが浮かんでいた。

 あの時、彼女に傷と共に与えられた狂気は、不本意な物。
 そして、ラッセルはその狂気の侵食を止めてくれる、掛け替えない存在。
 その掛け替えのない存在を愛する事もまた狂気だと言うなら、甘んじて受け
入れてもいい。
 狂う事から逃れられぬ定めなら、愛しさに溺れ、狂気の淵へ堕ちて行こう。

 ごく自然に……そう、心が決まった。

「……」
 心が定まった所で、改めて寝顔を見つめる。寝顔には、どことなく不安げな
陰りがまだ微かに見受けられた。
「……心配、するな。離れない……ずっと、一緒だ」
 時が、そしてお前自身がそれを許してくれる限り。
 一番近い場所は、絶対に手放す事はしない。
 そんな決意を込めて、眠っている唇に、そっと触れる。

 ……伝わる温かさが正気を繋ぎ止めつつ、同時に、新たに気づいた狂気を深
めていくのが感じられた……。


 ……それから、数年を経て。
 表には出すまい、と誓っていたはずの想いは、ひょんな事から多数の目に晒
される展開となり──今に、至る。

 一緒に居れば、狂う事はない。
 それは偽り、でも、真実。
 共に居れば狂い、でも、離れても狂うのだから。
 それならば、より、心地良い狂気へと堕ちよう。

 俺が俺であり続けるための希望と、共に、生き続けるために。


あとがきという名の言い訳(笑)
BACK