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   凍れる滝に鯉のぼり

 厄介事と言うモノは、大抵、到来パターンと言うのが決まっている。
 呪術医師・樫村秀一にとっては、『知人が訪ねて来る』というのは、大抵が
そのパターンに当てはまるものだった。
 故に。
「よ〜っす、秀一っつぁん、お久しぶり〜♪」
「オレはヒマじゃねえぞ」
 軽いノリで診療所に入って来た男が二の句を接ぐ前に、樫村はきっぱりとこ
う言いきっていた。
「…………」
 話が進まない。
「……相っ変わらずだなあ、秀一っつぁんは」
 空白を経て、入って来た男は大仰なため息と共にこんな言葉を吐き出してい
た。ブルーグレイのブルゾンとスラックスというラフなスタイルをした、まだ
若い男――恐らくは、樫村と同年代だろう。サングラスをかけているので顔は
はっきりとはわからないが、それが似合っているとはどうにも思い難いものが
ある。
「大きなお世話だ。とにかく、オレはヒマじゃねえ」
 取り付く島がない。
「ヒマじゃない、ねえ……この、ガラン、とした診療所を見て、それ信じろっ
つってもなぁ」
 しかし敵もさる者、人気のない診察室を見回してさらりとこう逆襲する。樫
村は露骨に不機嫌な一瞥を投げかけ、男はサングラス越しに平然とそれを受け
止めた。
「……一つ、言わしてもらうぞ、麻生(あそう)」
 沈黙を経て樫村がもらした呟きに、麻生――矢守(やがみ)麻生はなん? と言って首
を傾げて見せる。
「お前、サングラスは似合わねえから、かけるな」
「……」
 再び、沈黙が立ち込める。
「秀一っつあ〜ん……」
 深い、深いため息と共に麻生は疲れ果てた声を上げる。樫村はそちらを振り
返る事なく、んで? とぶっきらぼうに問いかけた。
「んで、って?」
「何の用だよ?」
「おおっ!! 手伝ってくれんのっ!?」
「……オレが気ぃ変える前に、話せばな」
 声を弾ませる麻生に、樫村はどこまでもぶっきらぼうな口調でこう続ける。
「さんきゅー。やっぱ、持つべきものは友、だよなあ♪」
「……誰がだ」
 浮かれる麻生に樫村は低く、低く、こう言い捨てていた。

 で、結局。
「っとに……メンドーな」
「秀一っつぁん、文句多すぎ」
「実際、メンドーだろうが」
「あ〜、そんなミもフタもない〜」
 夜の森に漫才のような会話が響く。明かりと呼べる物のない夜の森を、樫村
と麻生は平気な顔ですたすたと歩いていた。人の手がほとんど入っていない森
の中は道らしき物もなく、足元は相当危なっかしいのだが、どちらにも気にし
た様子は見えない。
 麻生の用事とは、この山奥で目撃された怪奇現象の調査を手伝ってくれ、と
言う物だった。何でもここ数日、今いる近辺では夜間に限り異常な気温の低下
が観測されているらしい。不気味な青い光が見えた、という情報もあり、どう
も人ならざるものが何やらやらかしているらしい……というのが、麻生の弁だ
った。
 麻生はフリーライターとして、妖精や妖怪、その他諸々の不可思議な現象に
関するコラムやエッセイを方々で連載している。その関係上、怪奇現象に関す
る情報には事欠かないのだ。
 そして、麻生は特定の条件に合致する情報に関しては必ず調査を行っていた。
調査を行うのは自然の異常。本人に言わせると、
「それがオレの本来の仕事だから」
 という事になるらしい。自然をあるがままに保ち、それによって力の均衡を
保つ事――それが、矢守麻生という男の役割なのだそうだ。
 そしてその『本来の役割』を果たす際に、麻生は必ず樫村を巻き込んでいた。
この時、樫村の「オレは便利屋じゃねえ、医者だ」という主張は常に無視され
ている。
 ……もっとも、樫村のこの主張を素直に聞く者の方が希有なのだが。
「大体な、麻生」
 下草を踏み分けて進みつつ、樫村は素っ気なく言葉を続ける。
「なんよ?」
「お前の持ち込む騒動は、ややこしいだけでミがねえってパターンが多過ぎん
だよ」
「うあっ!? そりゃないよ、秀一っつぁ〜ん」
 容赦なく言い捨てる樫村に麻生は情けない声を上げるが、
「真理だ」
 樫村は遠慮なく止めを刺した。麻生はう〜、と力なく唸るだけで反論しない。
できない、と言うべきかも知れないが。
 とはいえ、樫村が遠慮なく毒舌を振るうのは、転じて相手を信頼している、
という事でもある。中学入学以来、十年を超える長い付き合いのある麻生だか
らこそ、忌憚ない物言いをしていると言えるのだ。麻生の方もそれとわかって
いるためか、オーバーアクションで落ち込んでいる割にどことなく楽しげだ。
「……ん?」
 しばらく進んだ所で、樫村は訝るような声を上げて足を止めた。
「……アレか?」
 前方を睨むように見つつ、樫村は同じく足を止めた麻生に短く問う。麻生も
前方を見やりつつ、恐らく、と短く応じた。
 二人の前方から、不自然な光が射してくる。光は徐々に輝きを増し、それと
共に周辺の気温が下がっていくのが感じられた。寝苦しい事の多い梅雨の中休
みの夜にしては、相当に異常な事態だ。
「しかし、お前もよくこんな話拾ってきやがるよな」
 ゆっくりとそちらへ向けて歩きつつ、樫村は呆れた口調でこんな事を言う。
「メシのタネと一緒に、転がり込んでくんの」
 同じく歩みを進めつつ、麻生は平然とこう答えた。
 先に進むに連れて異常な冷気は強まり、下草や木々の表面にうっすらと白い
色が浮かび始める。吐く息が白い。季節は初夏から一転、冬へと変化してしま
ったようだった。
「……うざいな」
 あからさまな異常を、この一言で切り捨ててしまうのだから、樫村秀一、や
はり只者ではない。
「つーか、寒い」
 それに平然とこう返す矢守麻生、こいつも只者ではないが。
 しばらく進むと木立ちが途切れ、視界が開けた。二人は足を止めて周囲を見
回し、目の前にそびえ立つものにそれぞれが眉を寄せ、首を傾げた。
「……滝?」
 確かに、それは滝だった。落差や段数は大した事はないが、水量はそこそこ
あると思われる。しかし、その流れは白く煌めくだけで微動だにしない。凍り
ついているのだ。ちら、と視線を投げかけると、何故か滝壷の淵は凍りつく事
なく蒼い水を湛えている。周囲を照らす蒼白い光は、その淵から放たれていた。
「なんだこりゃ? この滝だけ、季節逆転か?」
 呆れたように吐き捨てつつ、樫村は白衣のポケットから愛用の札を取り出す。
「……なんにせよ、迷惑だって。植生にかなり影響でてるし……」
 あり得ない冷気に萎れ、白く凍りついた周辺の植物の様子に、麻生は露骨に
嫌そうに顔をしかめた。
「で、迷惑ならどーする?」
「取りあえず、元凶にご登場願うってのは?」
 ばりばりと頭を掻きつつ樫村が問うと、麻生はため息をついてこう答えた。
二人の視線が蒼白い光を放つ淵に向く。樫村は大げさなため息をつくと、札の
束の中から一枚を抜き出し、
「……雷符!」
 短い言葉と共に無造作に淵に投げ込んだ。淡い金色の光が走り、次の瞬間、
それはバチバチと音を立てて弾ける雷光となって荒れ狂った。
『きゃああああああああっ!』
 直後に、水の中から甲高い声が響く。樫村と麻生は軽く後ろに飛びずさり、
淵との距離を開けた。雷光の静まった淵の水面がごぼごぼと泡立ち、水の中か
ら黒い影が飛び出してくる。
「……は?」
「え?」
 現れたその姿に、樫村と麻生はほぼ同時にとぼけた声を上げていた。
「……コイ……か?」
「恐らく……」
 とぼけた会話の通り、それは鯉だった。黒と白のグラデーションの見事な鱗
を持った、巨大な鯉。いや、原色に近いそのカラーリングは鯉と言うよりは鯉
のぼり、と言った方がしっくりくるかも知れない。
『いたいいたいいたいいい! 何すんだよぉぉ!!』
 呆然とする二人に、巨大な鯉は身体をくねらせながら文句を言う。その動き
に伴って冷気が撒き散らされ、周囲の草木を白く凍らせた。
「っだああああっ! やめんか、うっとおしい!」
 当然の如く周囲の気温も下がり、それにいらついた樫村は大声で怒鳴ってい
た。怒鳴られた鯉はびくっと身体を震わせると、ぴたり、と動きを止めて樫村
を見る。その様子は、叱られて怯える子供を思わせた。
「おら、化けゴイ! てめー、何やってんだ、迷惑な!」
「秀一っつぁん、ちょっと落ち着いて……」
 いらいらと怒鳴る樫村に麻生が引きつりながら呼びかけるが、ものの見事に
素通りしている。
『だ……だって……』
「だってじゃねえ! こんな時期のこんな夜中に、こんな山奥の滝凍らせたっ
てな、誰も喜びゃしねぇんだぞ!」
『だって……だってぇぇぇぇ!』
 鯉の絶叫と共に、周囲の気温が一気に下がった。極端な気温の変化に対応で
きず、二人はその場に膝を突く。
「ちっきしょ、ざってぇ……炎符!」
 しかし、どんな状況においても大人しくやられはしないのが樫村秀一という
男だった。樫村はかじかむ手を強引に動かしつつ、札の一枚を抜き取って鯉へ
と投げつける。札は炎を発し、その炎が鯉と、その背後の滝をばっと包み込ん
だ。
『きゃああああああああっ!』
 再び絶叫が響き、鯉はばしゃん、と淵に飛び込んだ。じゅっ!と言う音が響
き、水蒸気が周囲に立ち込める。同時に凍り付いていた滝が溶け、水が一気に
淵へと流れ落ちた。だが、淵から水が溢れる事はない。どうやらこの滝の水は
ここから地下へと流れ込んでいるようだ。
「……ご……強引だよな、秀一っつぁんは……」
 立ち込める水蒸気をぱたぱたと手を振って散らしつつ、麻生が呆れたような、
それでいてどことなく感心したような口調でこんな事を言った。樫村は答えず
に淵へと歩み寄る。
「おら、化けゴイ! 隠れてねーで、出てきやがれ!」
 水面に向けて怒鳴ると、それに応じるようにこぽこぽと水面が泡立った。そ
の泡を追うように、小さな影が水面に浮かび上がってくる。
「……秀一っつぁん、あれって……」
 その姿に、隣りにやって来た麻生がどことなく呆れたように問う。問われた
樫村は大げさなため息をついた。
「鯉のぼりだな。しかも、安い食玩の」
 ばりばりと頭を掻きつつ吐き捨てられた言葉の通り、それは小さな鯉のぼり
だった。こどもの日が近くなるとスーパーなどで売り出される、竿の部分にこ
んぺいとうなどの菓子を詰めた小さな鯉のぼりだ。
 水面に浮かんできた鯉のぼりは、印刷された大きな目で怯えるように二人を
見上げている。その態度にイラつきを感じつつ、しかし、樫村はどうにかそれ
を押さえ込んで問いを投げかけた。
「おい、化けゴイ改め化け鯉のぼり」
『……』
「お前、何がしたくて滝なんぞ凍らせてんだ?」
『……』
「……答えねーつもりか?」
 声に再び苛立ちがこもり始めるが、鯉のぼりはすっかり怯えてしまったらし
く、水面に浮かんでふるふると震えるだけで答えない。
「答えねーと、問答無用で退魔すんぞ、コラ」
『……! ヤダっ! それ、ヤダあっ!!』
 低い言葉に鯉のぼりは上擦った声を上げる。
『ボク、龍にならなきゃダメなの〜! 龍にならないと、まーちゃんが元気に
なれないから、だから〜!!』
「……はぁ?」
 鯉のぼりの必死の訴えに、樫村と麻生はほぼ同時にとぼけた声を上げていた。

 鯉は滝を登ると龍になる、と言われている。
 事の真偽は不明だが、その話は時に、『努力すればなんとかなる』といった
意味合いを持たされる事がある。
 この小さな鯉のぼりも、そんな話のタネにされたものだった。
 難病で入退院を繰り返す少年に贈られ、病魔に屈しないように、という願い
を込められた鯉のぼりは、いつか、意思を持つようになっていた。
『コイちゃんが龍になれるくらい頑張ったら、ボクの病気も治るかなあ……?』
 一進一退を繰り返す病魔との戦いの中、いつの間にかこれが少年の口癖にな
っていたという。
 やがて少年の病状は悪化し、鯉のぼりは、願掛けという名目で川に投げ込ま
れた。実際には、鯉のぼりを見ては弱気になる少年に耐えられなくなった母親
が捨ててしまったらしいのだが。
 川に投げ込まれた鯉のぼりは、流れ流れてこの滝に辿りつき、淵に落ちた。
そして、淵の中で決意したのだ。滝を登って龍になろうと。そうすれば、きっ
と、少年も病魔に屈しないはずだ、と思って。
 しかし、ある意味当然だが、布の筒でしかない鯉のぼりには、流れに逆らっ
て滝を登る事は不可能だった。近づけば水圧で揉みくちゃにされ、流されてし
まう。
 飽くなき挑戦は繰り返され、ある時、鯉のぼりはふとある事に気がついた。
流れを止めてしまえば、そうすれば登りやすくなるのではないか、と。

「……でー、そのために滝を凍らせて、んでもって毎日滑り落ちてた、と」
 鯉のぼりの話が一区切りすると、樫村は露骨に呆れ果てた口調で言いつつた
め息をついた。
『だって……だってぇ……』
 そんな樫村に、鯉のぼりは泣きそうな声で細々と訴える。
「にしてもねぇ……お前さんの撒き散らした冷気のお陰で、ここらの自然、相
当おかしくなってんだよねぇ……」
 そこに麻生がこんな追い討ちをかけ、鯉のぼりを更にへこませた。
「つー訳で、だ。化け鯉のぼり、どっちか選べ」
 落ち込む鯉のぼりに、樫村が唐突にこんな事を言った。
『どっちか……?』
「後一回だけ滝登りに挑戦するか、それとも大人しく祓われるか」
「って……秀一っつぁん?」
 樫村の言葉は予想外だったのか、麻生が怪訝そうな声を上げた。鯉のぼりも
不思議そうに樫村を見つめる。
「オレの氷符で、滝だけを凍らせてやる。それで最後の滝登りに挑戦しろ」
『最後の……滝登り』
「ああ。登りきって龍になれりゃあそれでよし。まーちゃんとやらに喝入れし
てからこの滝と淵の護り手になりゃあいい。ただし……」
 ここで樫村は一度言葉を切り、鯉のぼりは恐る恐る、ただし? と続きを促
してきた。
「ただし、挫折は許さねえ。やるからには登りきれ。でもって、それで龍にな
れなかったとしても大人しく祓われろ。てめーの存在は、不自然なんだからな」
「それって……キツクない?」
 樫村の出した条件に麻生が呆れたような声を上げるが、言うまでもなく素通
りしている。そして、鯉のぼりは逡巡するように浮き沈みを繰り返した。
『……最後の……最後……』
「とっとと決めねーと、問答無用で祓っちまうぞー?」
 選べと言っている割に、選択の余地がない。鯉のぼりはぱしゃん、と音を立
てて跳ねあがり、やります、やりますー! と悲鳴じみた声を上げた。
「なら、よし。んじゃ……氷符!」
 その返事に満足げに頷くと、樫村は札を一枚滝へと投げた。それは水圧を物
ともせずに滝の流れに飛び込み、青い光を放って滝の流れを凍らせた。先ほど
の冷気による凍結とは違い、周囲に影響を与える事なく滝だけを凍らせている。
「ほれ、とっとと行け!」
 凍った滝をじーっと見つめる鯉のぼりを急かしつつ、樫村はその場にどっか
と腰を下ろした。完全な傍観態勢に呆れつつ、麻生もその隣りに腰を下ろす。
鯉のぼりはしばらくためらっていたが、やがて意を決したように凍った滝へと
ジャンプした。ぺたん、と表面に貼りつき、くねくねと身体をくねらせて上へ
とよじ登って行く。
『……うう……』
 三分の一ほどよじ登ったところで、鯉のぼりが動きを止めた。
「何休んでんだ、コラ。祓うぞ」
 辛そうに震える鯉のぼりに、樫村は容赦ない言葉を浴びせる。鯉のぼりはび
くっと大きく震えると、再び滝をよじ登り始めた。
『うう……ダメだぁ』
 そこから更に進み、半分程度まで来たところで鯉のぼりはまた動きを止めて
情けない声を上げる。
「何がダメだ、コラ」
『だって……ボク、鯉だけど鯉じゃないし……やっぱり……ダメだよぉ』
「ナマのコイかどうかなんて関係ねえ。ようは、てめーのやる気次第だ」
 泣きそうに訴える鯉のぼりに、樫村は容赦なくこう言いきった。
『……やる気……』
「てめーに意思を与えたのはなんだ? てめーは、何のために滝を登ろうとし
てんだ?」
『それは……まーちゃんの、じーちゃんで……ぼくは……』
「救いになりてえ。そう思うから、だからこんな馬鹿げた事を大マジでやって
んだろ!?」
『救い……』
「てめーが諦めたら、それこそそのまーちゃんとやらも諦めちまうんじゃねー
のか?」
『まーちゃん……』
 樫村の言葉は、鯉のぼりに何かを思い出させたようだった。そして、鯉のぼ
りは再び身体をくねらせ、滝を登り始める。
 ゆっくりゆっくり、着実に。凍った表面を這うようにして進んで行く鯉のぼ
りに、少しずつ変化が訪れた。薄い布地の身体が光を放ち、その光の中で、少
しずつだが身体が厚みを帯びてくる。
「……秀一っつぁん、あれ……」
 その変化にぽかんとした声を上げる麻生に、樫村は素っ気なく黙ってろ、と
言うだけだった。
 その間にも鯉のぼりは滝を登り続け、滝の落ち口が間近になる頃には、その
身体は生物の鯉と何ら変わらぬ姿に変わっていた。鯉のぼりは最後の距離をジ
ャンプで飛び越え、上の川に飛び込む。
「……登りきった」
 麻生がぽつんと呟いた直後に、滝の上から強い光が放たれた。澄んだ咆哮が
光の中から迸り、それを追うように蒼く輝く龍が夜空へと飛び出す。龍は数回
旋回すると、夜空の彼方へと飛び去った。
「……行っちまったけど……?」
「なに、用が済んだらここに戻るさ」
 いいのか、と言わんばかりの麻生に、樫村は平然とこう答えてゆっくりと立
ち上がった。それから再び炎符を滝へと投げて氷を融かす。
「さあて、これで片付いたろ? 戻るぜ」
 再び水が流れ出したのを確認すると、樫村は踵を返して歩き出す。麻生は龍
の飛び去った方をちらっと見、それから慌ててその後を追った。
「秀一っつぁん」
「あん?」
「なんで、わざわざ滝登りなんて……」
「鯉がマジで龍になるのか、確かめてみたくてよ。それに……」
 麻生の問いに樫村はしれっとこう答え、途中で言葉を切った。
「……それに?」
「あいつの言ってた……まーちゃんとやらな。多分、オレの同期の抱えてる難
病のボーズだ」
 途切れた言葉の先をため息まじりに続けると、麻生は一瞬目を見張り、それ
から、妙に楽しげにくくっと笑った。
「……あんだよ?」
「いやあ……やっぱ、秀一っつぁん、優しいなぁ、と思ってさ♪」
「……」
 ……びし!
 森の中に鈍い音が響く。
「……くだらねー事言ってねーで、さっさと帰んぞ! オレは、眠い!」
 麻生の顔面に裏拳を叩き込んだ樫村は、こう言って足を早めた。
「ってて……って、ちょっとちょっと! 秀一っつぁーん!」
 殴られた所を抑えつつ、麻生は情けない声を上げてその後を追う。

 薄れ始めた夜の闇が、そう遠くない夜明けを告げつつ、静かに二人を見送っ
ていた。

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