目次へ




   閉ざされたものの哀歌

 霧が、白い。
「……うざいな」
 車の中からその白い帳を睨むように見つつ、樫村は苛立たしげにこう繰り返
した。
「三十回目だぞ、秀一」
 運転席の瑞穂が呆れたように突っ込む。それに、樫村はうるさい、と素っ気
無く応じた。
 白い霧の立ち込める山奥の沼、その辺に止まった4WDの大型車。車内には
二十代半ばの若い男女が二人きり――箇条書きにすると妙に艶のあるシチュエ
ーションなのだが、二人の間には甘い雰囲気など全くない。皆無である。
 その原因の一端は、恐らくは二人の格好にある。樫村は色のあせたポロシャ
ツにジーンズ姿で、靴は履き潰し寸前のバッシュ、更によれよれの白衣を羽織
っている。髪はぼさぼさで、不精ひげがないのが不思議なほど、くたびれた格
好だ。白衣を着ているのは彼の稼業が医者だから……だろう、多分。
 一方の瑞穂は白い単の着物に真紅の袴、足は足袋に草履履き。いわゆる、巫
女のスタイルだ。きりりとした顔立ちに引き締まった装束が良く似合い、長く
伸ばした漆黒の髪が白と紅と、絶妙に引き立てあっている。
「……大体、なんでオレがこんな事に付き合わにゃならんのだ?」
「仕方ないだろう。ここに出る怪異は、男女二人連れの前にしか、現れんのだ
から」
「なら、お前の従兄弟でも使えばいいだろうが」
「……雅也は、役に立たん」
 つまらなそうに――と言うか、樫村は本気で状況をつまらながっているのだ
が――言うと、瑞穂はきっぱりとこう言いきってしまう。樫村はやや、呆れた
ように瑞穂を見た。
「……言いきるか、そこで?」
「事実だ、仕方あるまい。かく言うお前も、『応援』はどうしたんだ?」
「ああ……勝巳か。あいつも色々忙しいらしいからな……あいつん家の本家筋
……桂木家で、ごたごた起きてんだと」
 こう言うと、樫村はばりばりと頭を掻いた。
「っとに、役にたたねえ後輩どもめ。大体、こんな所に出るのは水物だろ? 
勝巳の雷撃が一番効くんだぞ、大抵は」
「人望がないな、お前は」
「ほっとけ。患者に人望があれば、食ってける」
 呆れたような瑞穂の突っ込みに、樫村は真顔でこう切り返した。

 樫村秀一。彼は、山間の町に小さな診療所を構える医師である。言動や行動
は、見ての通りの大雑把。患者ともめる事も決して少なくないが、逆に、気心
の知れた町医者として慕われている。以上が、表向きの肩書き。
 では、裏の肩書きとは何かと言うと、『呪術医師』である。まあ、医者に代
わりはないのだが、呪術を用いた精神治療や、時にはうつ病の皮を被った憑き
物落としなどもやっている。勿論、それを知る者は少ないのだが。
 星野瑞穂。とある神社を預かる若き巫女である。非常に高い霊的能力を持ち
合わせる事から、副業でお祓いや退魔なども請け負っている。樫村とは昔から
の腐れ縁であり、厄介な仕事の際にはよく彼を巻き込んでいる。今回のように。

「……秀一」
 不意に、瑞穂が低い声を上げた。樫村はああ、と気のない声でそれに応じる。
「どうやら、怪異のお出ましらしいな……で、なんだっけ、ここで起きてた事
件は?」
「……よからぬ目的でここに来た男女が、絞殺体で見つかった」
「……自業自得だろ。こんなとこに、何が目的で来てんだ?」
「私に聞くな。まあ、警察も動いているが、解決の目処は立っていない」
 立つわけがないがな、と言って、瑞穂は肩をすくめた。それに、樫村はそう
だろな、と応じて窓の外の霧を見る。

 ……うう……ひっく……

 霧の向こうから、女のすすり泣きが聞こえてくる。
「……怪談のお約束だな。見事な踏襲だ」
「何に感心しているんだ、お前は」
「……で、どうするんだ? 出るのか?」
「出るぞ。このまま中にいてもはじまらんし……車検を通したばかりの車に、
傷をつけられては割に合わん」
 ぞわぞわと音を立てて迫ってくるひも状の物体を睨みつつ、瑞穂が言った妙
にリアリティのある意見に、樫村はそーかよ、とため息をついた。瑞穂がいつ
運転を始めるかわからないため、律儀に締めたままにしておいたシートベルト
を外して外に出る。
 びしゃっ……
 車を降りると、こんな音と共に足元で水が跳ねた。
「……ちっ、こりゃまたちーちゃんに駄賃やって洗ってもらうか……」
 白衣に跳ねた泥水に、樫村は眉をひそめてこんな呟きをもらした。霧は、相
変わらず深く、濃く立ち込めている。重たい湿気につんつん跳ねるぼさぼさ髪
があっさりとしおれた。
「……うざい」
「文句を言うな……来るぞ」
 こちらはまとわりつく湿り気を物ともせずに、瑞穂が低く呟いた。周囲には
女のすすり泣きの声と、ぞわぞわざわざわという音がやけに大きく響いている。
「……絞首紐の正体は、なんだ、片葉の葦か」
 迫り来るものの正体に気づいた樫村は、呆れたようにこう呟く。その言葉の
通り、先ほどから迫ってきているのは無数の葦の茎だった。勿論、それがただ
の葦ではないのは言うまでもない。大体、ただの葦が統制の取れた動きでぞわ
ぞわと人を包囲するはずがない。そも、動く物ではないが。
「……出処が違うだろう。それは確か、本所だ」
「この際、ンな事はどうでもいいっての。それより瑞穂」
「結界は、既に張った」
「さすが……手回しがいいねえ」
「当然だろう?」
 私を誰だと思っている、という瑞穂の言葉は、一際強い葦のざわめきに遮ら
れた。二人は背中合わせに立ち位置を定め、周囲を警戒する。瑞穂の手には朱
塗りの鞘に納まった短刀が握られ、樫村の手には、札のような物がいつの間に
か現れている。葦が大きくざわめき、そして、それが姿を見せた。
『……どうして……どうして、あなたたちは一緒なの……』
 霧を掻き分けるようにして沼の奥から現れたのは、長い髪の若い女だった。
青ざめた肌と真紅に光る眼、そして黒髪のコントラストがなんとも凄絶な色彩
を織り成している。水に浸かった足元は良く見えないが、どうやら周囲の葦は
彼女の足でもあるらしい。
「……多足生物の代わりに葦の生えたスキュラか? 滅茶苦茶だな」
「……思念がかなり乱れている。それが周囲の物を無作為にとり込ませている
か、でなければ……」
「でなければ?」
 軽い口調で先を促すと、瑞穂は微かに眉を寄せた。
「……葦によって、器がこの地に束縛されているのやもしれんな」
 びゅっ!
 瑞穂の呟きをかき消すように葦が唸りを上げ、二人に襲いかかってくる。瑞
穂は素早く抜刀してそれを切り払い、樫村は、
「……炎符!」
 鋭く声を上げて札の一枚を投げた。札は炎となり、迫る葦を焼き払う。本来
は燃えにくいはずの葦は鮮やかな真紅の炎に包まれ、周囲は火の海さながらの
様相を呈した。そしてその炎は沼から現れた女にも、激しい苦痛を与える。
『ああっ……ああああああっ!』
「……お、やはり熱いか」
「当たり前だ! というか、この状況をどうするんだ?」
 呑気な事を呟く樫村に瑞穂が突っ込む。さすがにと言うか、周囲を取り巻く
炎には彼女も焦っているようだ。
「……あのな、瑞穂。オレの炎符の炎は、無作為に物を燃やしはしないぞ。そ
れより……」
 それに答えつつ、樫村は悠然と女を見た。葦はあらかた焼き尽くされ、炎は
鎮まっている。そして、女は荒く息をしつつ樫村を睨んでいた。
「おい、お前」
『……』
「なんで、こんなとこにいるんだ? 誰かに沈められたのか?」
『……』
「聞いてやろうってんだから、話してみろよ。あ〜、大体でいいからな」
 ぞんざいな物言いに、女は軽く唇を噛み、それから、下腹部を撫でるように
しつつ、自分の事を話し始めた。恋人の子供を身ごもり、それを伝えた翌日、
ここに連れて来られ、首を締めて殺されたと、要約するとそういう事らしい。
その後、身体に葦で石を縛りつけられ、ここに沈められ――気がつくと裏切ら
れた悲しみと怨気でこの姿になっていたのだという。この地で起きたカップル
の絞殺事件は、自分が一人で沈められたのに、他の恋人たちは仲睦まじくして
いるのが許せなかったからである事も、比較的あっさりと認めた。
「……二流だな」
 一通り話を聞いた樫村は、たった一言、こう言った。
「まるっきり、二流メロの二流ヒロインだな。ま、男の方はただのバカだが」
 霧で湿った頭を掻きつつ、やってられん、と言わんばかりにこう吐き捨てる。
女の瞳に怒りが浮かび、彼女はそれを真っ直ぐ樫村に向けた。対する樫村は臆
する事無く、真っ向からそれを受け止める。
「そんな事で束縛されてどーする。とっとと上に上がっちまった方が、断然ラ
クだろ? でないと、お前と一緒に逝ったガキも、転生できないんだぜ?」
『……そんな、事……できないっ! だって……』
「ぐだぐだ抜かすな! だから女はうざいってんだ……っとに!」
 苛立たしげに吐き捨てつつ、樫村は手にした札を女に突きつけた。
『……なによ……何するのよ?』
「……怨気、吸引……邪気、滅消!」
 手にした札が光を放つ。光は女を静かに包み込み、静かに光る球体になった。
「……抵抗ないってコトは、上がりたかったんじゃねえか……うだうだと言い
やがって……瑞穂!」
「……わかっている」
 ぶつぶつと文句を言いつつ振り返ると、瑞穂は短刀を握る右手を高く差し上
げた。白銀の美しい刀身が柔らかい光を放ち、それが樫村の生み出した光球を
包み込む。
「……怨気、清祥……上がりなさい、あなたの痛みは忘れないから」
 囁くようにこう言うと、瑞穂は刃を静かに振り下ろし――

 光が、弾けた。

「……やはり、秀一を呼んで正解だったな」
 静まり返った沼の辺に、瑞穂が音を取り戻した。霧は、まだ晴れていない。
怨気の霧は薄れたが、どうやらここは元から霧が深いらしい。
「……」
 樫村は眉を寄せたまま沼の水面を睨んでいたが、やがて、無言で瑞穂に札を
つき付けた。
「……なんだ?」
「まさか、全部の怨気を清めたワケじゃあるまい?」
 低い問いに、瑞穂が微かに眉を寄せる。
「……飛ばすのか?」
「……自業自得だ。勝手な理由で二つも命を沈めたバカは、相応のメに合わせ
にゃ割に合わん」
「割に合う、合わないの問題ではなかろうが……」
「……みぃ〜ずほ」
 低く名を呼ぶと、瑞穂はわかった、と呟いて札の上に短刀の刃を乗せた。刃
の上に微かに残っていた陰りが転がるように札に落ち、染み込む。光が瞬き、
札の上に赤一色で絵が描かれる。赤ん坊を抱えた、どこか幼い女の絵だ。樫村
はそれをひねり、鳥のような形を作って投げ上げる。札は一瞬光を放つと、白
い鳥に姿を変え、霧の向こうに消えた。

 ……数日後、どこかの会社社長令嬢の婚約者が、前の恋人を殺した、という
旨の遺書を残して首をくくった、というニュースが流れるが、その頃には樫村
はこの一件を忘れていたらしい。余談なのだが。

「……さて、帰るか」
 鳥が飛び去るのを確認すると、樫村は頭を掻きつつ瑞穂に声をかける。瑞穂
は一つ息を吐いて、そうだな、と頷いた。


目次へ