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   Angel Memories

 絶対、泣かない。
 母が病に伏した時から、フレアはそう心に決めていた。
 泣き顔は、母にも、そして父にも心配をかけるから。だから、我慢するのだ
と。
 母が永眠した時にはさすがに押さえがきかなかったものの、しかし、葬儀の
間は、ずっと泣くのを堪えていた。
(心配かけちゃダメ、心配かけちゃダメ、心配かけちゃダメ)
 心の中で何度もこう繰り返す事で泣きそうになるのを堪えつつ、しかし、表
面上は毅然とした態度を取り続けていた。
 その様子をどう解釈したのか、したり顔で無理しないで、などと言ってくる
連中に、蹴りをお見舞いしたいのをどうにか堪えつつ、だったが。
 葬儀と埋葬が終わった後、フレアは一人で墓の前に立ち尽くしていた。皆と
一緒に戻るふりをして、そのまま墓地に居残っていたのだ。そうして、他に誰
もいない墓地で、墓石を見つめつつ立ち尽くしていた。
 どんなに泣くまい、と思っても、視界がぼやけてしまう。
 その度に、フレアは手で目元を拭って、視界をぼやかすものがこぼれるのを
阻んだ。
「……泣かない……もん」
 そう、決めたんだからと呟いて、泣きそうになる自分を押さえ込もうとする。
 泣いたら、負け。絶対に、負け。
 弱さを見せたら、表層しかなぞらない周囲に付け入る隙を与える。
 自分が脆さを示す事で、いい人ぶっている周囲に、父の後添え縁談話など進
められては一大事。
 だから、泣かない。自分は大丈夫だとアピールし、父にもおかしな気を起こ
されないように、気をつけなくてはならない。
「ただでさえ、お父様の周りには悪いムシが多いんだからっ! あたしがしっ
かりして、追い払わなきゃダメなのっ!」
 七歳児が母の墓前で固める決意として、これはどうなのか。
 確かに、フレアの父は普段は天然でのほほん、とした、頼りない人物に見え
るのだが。
「お母様、心配しないでねっ! お父様の操は、フレアが守りますっ!」
 両の拳をぐっと握って宣言するような事ではないような感もあるが、突っ込
める者はいない。
「そう……だから……だからっ、だい、じょう、ぶ……」
 内容はともかく意気を上げ、決意を固める事で自己暗示を試みるものの、や
はり上手くいかない。そも、強引に感情を押さえつけようとしているだけなの
だから、上手く行く道理がないのだが。
「……泣かない……モン。絶対、に……決めたん、だか、ら……」
 泣き出しそうな自分を押さえ込もうと、切れ切れに呟いた時。
「何をしてるんですか、お嬢さん?」
 誰かが後ろから声をかけてきた。
「……っ!?」
 誰もいない、と思っていただけに、フレアの驚きは大きかった。にじんでい
た涙を拭い、慌てて振り返ったフレアは、声の主の姿に息を飲む。
 真珠を思わせる、柔らかな白の、翼。
 それが、最初に目に入った。
「……天使……さま?」
 ごく自然に、そんな言葉がもれる。
 いや、それ以外に表現できない、というべきか。
 茜色に染まり始めた空から、翼を持った者がふわりと舞い降りてきたのだ。
いかに聡いとはいえ、まだまだ知識も語彙も少ない少女には、それ以外にその
存在を表す言葉は思いつかなかった。
「あ、あの……」
 自分の目の前に降り立った翼を持つ者に、フレアは恐る恐る声をかける。
「何かな?」
 呼びかけには、穏やかな微笑みと問いが返された。外見的には男性にも女性
にも見えるが、声は男性のそれだ。
「あなたは……天使さま、ですか?」
「天使? ……キミがそう思うのなら、そうなんじゃないかな?」
 疑問に感じていた事をそのまま問いとして投げかけると、彼は穏やかなまま
でこう答える。フレアはまじまじとその姿を見つめ、首を傾げた。
 深く澄んだ藍色の瞳に、銀色の長い髪。装いは黒一色。
 創世神の教本に描かれている天使とは大分異なる姿のように思えるが、しか
し、漆黒の装いとの対比がこの上なく美しい真珠色の翼は、それらの相違点に
もかかわらずそこにいるのが天使である、とフレアに思わせた。
「天使さま……天使さまは、えと、どうして、ここに、降りて来られたのです
か?」
「さて、どうしてかな?」
「わからないから、お聞きしてるんですっ!」
 はぐらかすような言葉につい拗ねた声を上げると、天使は困ったような笑み
を浮かべつつ、フレアの前に膝を突いた。
「さっき、天に昇ってきた魂が、泣いていたからだよ」
 それから、静かな口調でこんな事を言う。思いも寄らない言葉に、フレアは
目を見張った。
「天に昇った……泣いてる、魂」
 嫌な予感が胸を過ぎる。泣きそうになっていた事が、母に知られてしまった
のだろうか。
「そう。自分の大事な娘が無理をしていると悲しんで、安らげずにいるんだ」
「……」
 静かな言葉に、フレアはどう答えていいかわからなくなって俯いた。
「キミは、どうして泣かないの?」
 俯いていると、天使が静かにこう問いかけてきた。フレアは一瞬だんまりを
決め込もうかと考えるものの、すぐにそれを諦めた。天使を欺く事など、人に
できる訳はないと、そう考えたのだ。
「だって……あたしが泣くと、お父様が心配するから……」
「だから、泣かないの?」
「だって! だって……だって……」
 泣く事で弱さを見せたくない、所詮子供、と言われたくない。
 根底にあるのは、こんなささやかなプライド。
 だが、フレアにとって、それはとても重要なのだ。
 王宮という空間で、他者に屈しないために、強くなくてはならない。
 いつの間にか芽生えていたそんな思いが、素直に泣く事を良しとしなかった。
「そうやって心を押さえ込んでしまうと、キミの本当に大切な人たちが苦しむ
のに?」
 静かな静かな天使の問いに、フレアはえ? と声を上げた。
「大切な人が……苦しむ?」
 泣かない、と決めたのは大切な人のため。
 父の負担になるまい、という思い故にそうしていたフレアには、天使の言葉
は意外そのものだった。
「当たり前の事だよ、それは」
 大事なものが無理をしていては、苦しくなるのは当然。
 戸惑うフレアに、天使は静かにこう言った。その言葉は胸にずきんと響く。
「だから、ね」
 俯いて唇を噛み締めるフレアの頬に、天使の手が触れた。
「苦しい時、辛い時は、ちゃんと心を見せた方がいいんだよ。その方が、キミ
の大切な人たちも安心する。天に昇った魂も安らげる」
 だから、無理しないで。
 こう言って微笑む天使の表情は、とても優しくて。
 頬に触れる手も、本当に温かくて。
 その優しさと温かさに、心の中に生じていた黒々としたものが溶けていくよ
うで。
 言いようもなく──安心できた。
「天使、さま……あたし……」
 そうして安心するのと同時に、何かが切れたような気がした。驚きやら何や
らで、一度は止まっていた涙が再び滲み、視界をぼやかせる。天使はそんなフ
レアを引き寄せて、自分の腕と、真珠色の翼で包んでくれた。
「泣いていいよ。今は、誰もいないからね」
 優しい言葉が、感情を解放する引き金になった。フレアは天使の胸にしがみ
つき、声を放って泣きじゃくる。
 それこそ、子供のように。いや、実際子供なのだが、先ほどまでとは一転、
歳相応の子供のように、素直に。
 そうやって泣く事で、心の中の黒いものが溶けて流れるようだった。
 温かい黒と、優しい真珠の白。
 それが、冷たい黒を溶かしてくれる。
「必要以上に、自分を抑えないの。キミは、一人じゃないから……だから、大
丈夫」
 優しい言葉に、フレアははい、とか細い声を上げて頷いた。
「じゃ、一つ約束しよう。泣くのを無理に我慢しない、でも、すぐに泣いたり
しないって」
 そうすれば、みんな安心できるからね、という言葉に、フレアはこくん、と
頷いた。天使は、じゃ、約束、と言って、そっと頭を撫でてくれる。その心地
良さと、ここ数日の張り詰めた精神状態のもたらした疲れはやがて、フレアを
眠りの闇へと誘う。
 黒と白に包まれて沈む眠りの闇は、とても温かく、優しいものに思えた。

「……ア……フレア!」
 誰かが、呼んでいる声がする。
 とてもよく知っている、聞き慣れた声。それはフレアを温かな眠りの闇から、
ゆっくりと引き戻す。
「……ん……」
 眠りから呼び戻されたフレアはゆっくりと目を開き、心配そうにこちらを見
つめる顔を気づいてきょとん、と瞬いた。
「……お父……さま?」
 とぼけた声で呼びかけると、父は安堵したように息を吐いた。
「まったく……屋敷のどこにもいないから、心配したよ。ずっと、一人でここ
にいたのか?」
「あ……えと、あのね、天使さま」
 まだどこかぼんやりとしたままで答えると、父は怪訝そうに眉を寄せる。
「天使さま?」
「うん、天使さまが降りてきて、お話ししてたの。銀色の髪で、黒い服で、真
っ白な翼のね、優しい天使さま」
 説明している内に段々と目が覚めてきたフレアは、ぐるりと周囲を見回した。
だが、蒼い夜闇の降りてきた墓地のどこにも、真珠色の翼の天使の姿はない。
「天使さま……天に、帰っちゃったのかな……」
 もっとお話ししたかったのに、と呟きつつ、何気なく下を見たフレアは、足
元に白い物があるのに気がついた。
「それは……羽かな?」
 フレアと同じ物に気づいた父が呟く。
「羽……天使さまの、羽!」
 はしゃいだ声を上げつつ、フレアはそれを拾い上げた。柔らかな真珠色の羽
は、闇の中で美しい光を放つ。
「……天使さまの羽……か。それよりフレア、そろそろ戻らなくては。夕飯が、
冷めてしまうよ」
 フレアの手にした羽を一瞥すると、父は穏やかな口調でこう言った。フレア
ははあい、と頷き、父と並んで歩き出す。
(天使さま……また、会えるかなあ?)
 右手に天使の羽の微かな温もりを、左手には父の手の温かさを感じつつ、フ
レアはふとこんな事を考える。
 漆黒をまとった、真珠色の翼の天使。その優しい微笑を思い返しながら。


言い訳とかしてみる(汗)
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