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   繰り返しの始まり

「よしっと……これで準備はいいわよね」
 カバンの中身を一通り確かめると、フレアは誰に言うともなく呟いた。カバ
ンの中に入っているのはお気に入りのアクセサリーを入れた小箱に、大好きな
お菓子を詰めた袋と、多少の着替え。腰のベルトには昔から護身用として持ち
歩いている魔法の短剣『ヒューイ』を下げている。財布はカバンの中とベルト
ポーチにわけて入れておいた。こうしないと危ない、と言われたからだ。
『……な、お嬢。本気かぁ?』
 不意に、呆れたような声が響いた。とはいえ、深夜の部屋の中にはフレアの
他には誰もいない。
「本気だって言ってるでしょ? 何度も同じ事聞かないで!」
 その声に、フレアは事も無げな口調でこう返した。
『ってなあ……やれやれ、たかが縁談くらいでここまでするかよ?』
「……う、る、さ、い! あんたには、わかんないの!」
 呆れたような嘆息に、フレアは憮然とした面持ちで言いつつ短剣の柄をぎゅ
っと握った。そう、さっきから突っ込みを入れていたのは他ならぬこの短剣自
身、自意識を持った短剣のヒューイだったのだ。
『わ、わかったわかった、もう言わねぇから……』
 慌てたようなヒューイの声に、フレアはもう、と言いつつ手を離してクロー
ゼットを開けた。華やかなドレスをかき分け、奥にしまっておいたマントを取
り出して羽織る。長く伸ばした見事な金髪を素っ気無いカーキ色の中に押し込
むと、フレアはカバンを肩からかけてそっとベランダに出た。
 ベランダの手すりには、シーツで作った即席のロープが結び付けてある。周
囲に人影がない事を確かめたフレアは、それを伝って庭に下りた。
『で、こっからどうするんだ? 門からは出られねえだろ?』
「……なんのために、ヒューイがいるのよ?」
 ヒューイの問いにフレアは淡々とこう言いきり、この言葉にヒューイはあの
な、と嘆息した。
『……外までテレポートしろってのか? あのなぁ、お嬢。昔から言ってるけ
どな、オレは……』
「……壁の外まででいいの。そこからは、自分で歩くから」
『……へいへい……』
 もはや処置なし、と悟ったのか、ヒューイは諦めたようにまた嘆息した。短
剣の柄にはめられた宝石が光を放ち、フレアの姿が消え失せる。一瞬後には、
その姿は屋敷を取り巻く壁の外へと移動していた。
「……外に、出たの?」
 囁くような問いに、ヒューイは素っ気無くああ、と答える。フレアはそう、
と呟いて屋敷を取り巻く壁を振り返った。
「……絶対……言いなりになんかならないんだから……」
 決意と、ほんの少しの憤りを込めて呟くと、フレアは十五年間育った屋敷に
背を向ける。

 しかし、現実はそうそう甘くなかった。

「……はあ……」
 翌日の昼下がり、フレアは建物の間の路地に座り込んでため息をついていた。
『……だから、止めとけって言ったろうが……』
 ヒューイの呆れたような突っ込みに答える体力もない。フレアはまたため息
をついて、膝を抱えた。
 考えがそも甘かった。屋敷を出てしまえば自由になれる――フレアはそう考
えていたのだ。ところが、フレアの父は彼女を探すように、という旨の高札を
街のあちこちに立てさせたのだ。それも、決して少なくない額の賞金をかけて。
このため、街の中にはフレア探索隊がにわかに発足しており、その追跡を逃れ
るためにこんな路地裏に座り込むハメになっているのだ。とりあえず、持って
いた菓子を食べて空腹を紛らわす事はできたが、それももう残ってはいない。
「大体、何なのよあのおふれは……実の娘に賞金かけるなんて、お父様、絶対
どうかしてる〜!」
「……ていうか、親に賞金かけられる娘の方もどうかしてると、オレは思いま
すけどね」
 思わずもらした呟きに、誰かがこんな突っ込みをいれた。ヒューイの声……
ではない。それと気づいたフレアははっと顔を上げ、そして、目を見張った。
 いつの間に現れたのか、目の前の塀の上に一人の青年が座っている。黒一色
のズボンとジャケットに身を包み、腰に巻いた鮮やかな紺色の飾り帯が風に揺
れている。長く伸ばして一本に束ねた髪は、ひそやかに光を弾く白銀の色だ。
 そして何より目を引いたのは、どことなく楽しげな光を宿した瞳だった。左
は紫で右は藍。異様だが、なんとも言えない美しさを織り成す異眸。それがフ
レアを見つめていた。
「な……なに、あなた? いつからそこにいたの?」
「いつからって、さっきから。菓子食べるのに夢中になってたから、声かけら
れなくてね」
「……え?」
 震える声で投げかけた問いに、青年はあっけらかん、とこう答えた。しかし、
ほんのついさっきまで人の姿も気配もなかったはずなのだ。大体、誰かが近づ
けば、ヒューイがすぐに知らせてくれるはずなのに――と思った矢先に、当の
ヒューイが大声を上げた。
『お、お前っ……アキア!?』
「え……?」
「や、お久しぶり、ヒューイくん。今まで大分、ご苦労だったみたいだねぇ?」
『やっかましい! 大体、それもこれも誰のためだと……っ』
「あれ? オレ、何か頼んだかな?」
 戸惑うフレアを完全に無視して、ヒューイと、ヒューイがアキアと呼んだ青
年は言葉を交わす。どうやら、知り合いらしい。フレアはヒューイとアキアと
を見比べ、それからヒューイに問いかけた。
「ちょ、ちょっとヒューイ、誰なのこの人? 知ってるの?」
『……知ってるというか……』
「まあ、腐れ縁と言いますか、本来の持ち主と言いますか……まあ、それはい
いんだけどね。オレは、アキア・クロウズ。相棒が世話になったね」
 ヒューイの濁した言葉の先を引きとって、アキアは笑いながら自己紹介する。 
フレアはきょとん、としつつ、ヒューイとアキアとを見比べた。
「それで……あたしに、何の用?」
 ゆっくりと立ち上がり、警戒を込めて問いかける。その様子に、アキアは楽
しそうににっと笑って塀から飛び降りてきた。
「用というか、何と言いますか。早朝から高札で手配されてる『名家のお嬢様』
が、どんなものかと思ってね。しかしまあ、なんだって家出なんかしたわけ?」
「あ……あなたには、関係ない!」
 軽い問いかけをこう突っぱねてフレアはそっぽを向く。直後に、ぐう〜、と
いう何とも間の悪い音が響いた。白い頬にさっと朱が差し、そんなフレアの様
子にアキアはくくっと笑った。
「わ、笑わないでよっ!」
「いや、まあ、そうしたいんだけど……はははっ……」
『おいおいアキア……お嬢の神経逆なでするなよ』
 フレアの文句にアキアは笑いながら答え、そこに、ヒューイがこんな突っ込
みを入れた。アキアははいはい、と言いつつ笑いを止め、改めてフレアを見る。
あまりにも美しい異眸故か、いざ見つめられると妙にどきりとした。
「じゃ、笑ったお詫びに食事でもどうかな? 裏通りに、いい食堂があるんだ
けど?」
「えっ!? でも……あたしは……」
 アキアの申し出にフレアは目を輝かせ、直後に陰らせた。賞金目当ての連中
に見つかったら――という不安が過ったのだ。アキアは一瞬の変化からそれを
読み取ったらしく、やれやれ、と肩をすくめる。
「だ〜いじょうぶだって。その辺は、オレに任せてくれればいいから」
「ほんとに……?」
『……安請け合いして大丈夫かよ、アキア……』
「……お前、オレを何だと思ってるのかな?」
 軽い言葉にフレアは不安げな声で問い、ヒューイは不信げな声を上げる。そ
して、アキアはヒューイに向けて笑顔でこんな事を言った。ヒューイはそ〜か
よ、と投げやりに言ったきり沈黙する。フレアはやや困惑しつつヒューイを見、
それからアキアを見た。
「……ほんとに大丈夫?」
「勿論。でなきゃ言いません」
『……そーゆーとこだけは変わってねえな……』
 おそるおそるの問いにアキアはさらりとこう答え、ヒューイがぼそっと突っ
込んだ。
「……お前ね、封じるよ?」
『……わかったよ……』
 低い言葉にヒューイはあっさりと白旗を上げた。妙にあっさりとした引き際
にフレアは戸惑うが、ヒューイがそれっきり何も言わないため疑問を飲み込む。
「じゃ、行こうか?」
 軽い言葉にフレアは頷き、二人は並んで歩き出す。銀髪のアキアとマントに
くるまったフレアが連れだって歩けば目立ちそうなものだが、何故か周囲の人
々は二人に注目しない。先ほどあんなにしつこく追いまわしてきたにわか捜索
隊も、怒鳴りながら横を通りすぎていった。
「……どうして、誰も気がつかないの?」
 アキアに伴われて裏通りの食堂に入り、奥の席に落ち着くと、フレアはずっ
と抱えていた疑問をアキアに投げかけた。アキアはなんでかなぁ? と笑って
はぐらかす。反論しようとした所にウェイトレスが注文を取りに来た。アキア
は慣れた様子で料理を注文し、改めてフレアと向き合う。藍と紫の異眸に見つ
められると、妙にどきまぎしてしまうフレアだった。
(やだな、もう……どうしたのかな、あたし……)
 今までは誰に見つめられても――それこそ、都中の若い娘の憧れの的である
レフィン王子に見つめられても、こんな気持ちにはならなかった。なのにどう
して、と思ったところで、フレアはふと王子の事を考えた。そも、フレアが無
謀な家出を決意したのはそのレフィン王子に嫁げという、父の一方的な言葉に
反発したが故なのだ。
(そりゃ、レフィン様は素敵な方だし、次代の国王陛下だし……普通は、望ん
だって妃になれるもんじゃないけど……)
 それでも、結婚と言う一大事を勝手に決められては叶わない、というのがフ
レアの主張なのだ。ずっと大事にされ続け、父の言う事には従っていたフレア
だが、この点だけは譲れない。だからこそ、家出という手段を取ったのだ。も
っとも、今後どうすればいいかは見当もつかないのだが……。
「……お〜い、お嬢さん? どうしたんだい?」
 思考の泥沼にはまりつつあったフレアを、アキアの軽い声が現実に引き戻す。
はっと我に返ると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「え……わあ、美味しそう!」
 いつの間にか目の前に並んでいた料理に、フレアは目を輝かせる。いつも食
べていた豪華な料理とは、多少見栄えで劣るものの、厚切りのパンもざっくり
と切った野菜のサラダも、そしてほかほかと湯気を立てる揚げ物も、それらと
は比べ物にならないくらい美味しそうに見えた。
「『美味しそう』じゃなくて、ちゃんと美味しいよお嬢さん?」
 目を輝かせるフレアの様子に、傍らに立っていた店の女将が笑いながらこう
言った。女将はにこにことしつつ、木のカップによそったカボチャのスープを
フレアの前に置く。こちらもほかほかといい匂いを漂わせていた。
「女将さん、それってあまりにも自画自賛だよ……ま、当ってるけどね」
 そんな女将にアキアが呆れたような突っ込みをいれ、女将は何言ってんの! 
と豪快に言いつつアキアをお盆で張り倒す。それに、いったいなあ、と文句を
言うと、アキアはフレアに笑いかけた。
「ま、冗談抜きで味はいいよ。保証するから、遠慮なく食べて」
「あ……うん! ありがとう!」
 アキアの言葉にフレアは早速目の前の料理を口に運ぶ。昨夜からまともな物
を食べていない事もあり、食欲は旺盛だ。
『おいおいお嬢……太るぞ』
 ヒューイの呆れたような突っ込みも耳には入らない。そんなフレアの様子を、
アキアは楽しげに見つめていた。こちらはさして空腹でもないのかパンをスー
プに浸して食べる程度だ。
「……ふう……ほんとに美味しかった……ごちそうさまぁ!」
 やがて、ようやく胃袋の欲求を満たしたフレアは満面の笑顔でこう言って頭
を下げた。
「どういたしまして……いや、見てるだけでも気持ちいい食べっぷりだったね」
「……それ、どういう意味?」
 ふと疑問を感じて問うと、アキアはさあね、とはぐらかして立ち上がった。
フレアはつい、不安げな面持ちでその動きを追う。
「さて、と……ちょいと、場所を変えようか。ここじゃ、色々とヤバイ」
「……え?」
『お嬢、ここはアキアの言う通りに……』
 戸惑っていると、ヒューイがこう囁きかけてきた。ただならぬ気配に戸惑い
つつ、フレアは立ち上がってアキアについて行く。勘定を済ませたアキアはす
たすたと路地裏へ入って行き――
「ヒューイ、どうだ?」
『……それなりの大物が来てるな』
「……ま、そうだろうな。お前がわざわざ起き出してまでついてた訳だし……」
『そういう事だ』
 突然、ヒューイとそこだけ理解可能な会話を始めた。状況を把握できないフ
レアはきょとん、としつつアキアとヒューイを見比べる。
「なに……どういう事なの?」
『あのな、お嬢……実は……』
「端的に言うとね、キミ、狙われてるんだよ。だからこそ、親父さんは王家に
嫁がせる事で、キミを守ろうとしたんだろうが……」
 ヒューイの言葉を遮り、アキアがこんな事を言った。藍と紫の異眸は路地の
奥に急に立ち込めてきた暗闇を睨むように見つめている。
「……正直、それでどうにかなる相手じゃないんだよね、キミを狙ってるのは
……ヒューイ!」
『……わあってる! お嬢、オレをアキアに渡してくれ!』
「え……え?」
『早く!』
 珍しく厳しい口調のヒューイに戸惑いつつ、フレアは他の誰にも渡した事の
ない護身剣をアキアに渡した。アキアの手に収まったヒューイは美しい真珠色
の光を放って形を変える。
 美しい細工はそのままに、短剣から長剣へ。一瞬の転身を遂げたヒューイを
左手に持ったアキアは、その切っ先を立ち込める暗闇へと向けた。暗闇の中に
目を思わせる光が灯り、それがフレアを凝視する。
『……煌風の……巫女……』
 地の底から響くような声がこんな言葉をもらす。アキアは厳しい面持ちで暗
闇の中の目を睨み、言った。
「悪いが、このコは渡せないよ……せっかく出てきたところ悪いけど、帰って
もらいましょうか?」
 凛とした言葉と共にヒューイが美しい光を放つ。暗闇の中の目が、ぎょっと
したように見開かれた。
『……貴様……まさか……ナゼ!?』
「何故も何も……お前たちが存在する限り、在り続けるのがオレだからね……
結構、文句言われてるんだよ、わかってるかな?」
 何ともピント外れな文句を言いつつ、アキアはヒューイを握って伸ばした左
腕に、右腕を交差させた。
「……『白銀の封印師』ヴェラキアの名において、今、ここに封印の力を生み
出さん……」
 低い呟きに応じるようにヒューイが虹色の光を放つ。暗闇の中の目がぎょろ
っと動き、フレアを見、渦を巻いていた闇が腕のようにひゅっと伸びた。
「……甘い!」
 しかし、その動きは既に見きられていた。銀煌が一閃し、伸びた腕が切り払
われる。
「冥魔、永封……今ここに、無光の封印をなさしめん!」
 闇の腕を切り払ったアキアは左後方に伸ばした腕を前へと返しつつ、鋭い声
を上げた。ヒューイを包んでいた光が輝きを増し、その輝きが暗闇の渦を飲み
込み、やがて消え失せる。
「………………」
 一連の出来事を、フレアはやや呆然と見つめていた。今、目の前で起きた事
が理解できなかった。しかし、それは理解を拒んではならない事だという、確
信めいた思いもまた、ある。故に、フレアは振り返ったアキアにこんな問いを
投げかけていた。
「今の……なに? あたし……どうすればいいの?」
「ん〜……そうだねえ」
 フレアの問いに、アキアは妙にわざとらしい口調でこんな事を言いつつ、手
にしたヒューイを一振りした。光がこぼれ、ヒューイは見慣れた短剣に戻る。
「今のは、世界の厄介物の下っ端。キミがどうすればいいかは、キミが決める
事だよ」
「あたし……が?」
「そ。今から家に帰ってもいいし、このまま家出を決行してもいいし。家出を
決行するなら、オレがエスコートさせてもらうけどね……どうかな?」
 楽しげに問いかけつつ、アキアは鞘に収めたヒューイを差し出してくる。フ
レアはしばしためらい……ヒューイを受け取った。
「諦めたりしないわよ……大体、これは家出じゃなくて、あたしの旅立ちなん
ですからね! その辺、忘れないでよ!」
 勝気に言い放つと、アキアははいはい、と頷いた。そして、フレアはゆっく
りと立ち上がり、ヒューイを腰のベルトに下げた。

 この先、何が待ち受けているのかは、想像もつかない。それでも、フレアは
自分の意思で旅立ちという選択を選んでいた。
 それが世界に及ぼす影響など、ついぞ気づかぬままに。

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