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   ACT−3:決して、交差しないもの 06

(……どうしたもんかな?)
 森の中へと伸びて行く道を歩きつつ、アキアは思案を巡らせた。
 フレアが今感じているのは、自分自身に対する不安だろう。今、自分の周囲
で起きている事、その原因や理由をフレアはほとんど知らないはずだ。そして、
周囲がその理由を知りつつ意図的に隠している事は、既に気づいているだろう。
(とはいうものの……)
 今はまだ、その理由は話せない。いや、もしそれができるなら、知らぬまま
でいさせてやりたいとアキアは思っていた。それが理想論であり、ほぼ不可能
であるとわかってはいるが、しかし、それでも……。
「……アキア」
 抜け出せない思考のループにはまり込んだアキアを、フレアの声が現実に引
き戻した。なに? と言いつつそちらを見ると、フレアは怪訝な面持ちでじっ
と前を見つめていた。
「お嬢?」
「アキア、あれ、何に見える?」
「あれって?」
 言われるまま、フレアの指し示す方へ目を向けたアキアは眉を寄せた。
 前方に、馬のようなものが佇んでいる。ただし普通の馬ではない。そも、ご
く普通の馬とそれに騎乗した人間を半透明の身体の中に取り込んだ巨大な六本
足の馬が普通であるはずはないのだが。
「冥魔か……」
 その普通とは言えない外見と、独特とも言える力の波動はそれが何であるか
を端的に物語っている。発生させたのは取り込まれている人間だな、とアキア
が考えていると、
「あれ……レフィン様に見えるんだけど」
 フレアがぽつりと呟いた。どうやらフレアが問題にしていたのは冥魔そのも
のではなく、取り込まれている人間の方だったようだ。そして、言われて見れ
ば冥魔自体が放つぼんやりとした光の中に金色の髪が浮かび上がって見える。
『おいお〜い、まさか、お嬢にフラれたショックで……』
 ヒューイが呆れたように呟くのを、アキアはいや、と短く否定した。確かに
大通りのど真ん中で『大嫌い』と言われたのはショックだっただろうが、冥魔
を生じさせる理由としてはいささか希薄だろう。それに、それだけが原因なら
もっと早い段階で冥魔が生じていてもおかしくはない。
「でも、それじゃどうして?」
 どことなく不安げな様子でフレアが問う。幼なじみから負の感情の集大成と
も言える冥魔が生じたのと言うのは、さすがにショックだったらしい。
「考えられるのは、さっきの連中かな?」
 先ほど出くわした男たちの事を思い返しつつ、アキアは肩をすくめた。
 レフィンから見れば、アルゼナス帝国と言うのはこの世界――クレアヴァイ
ンにおける、絶対的な安定の象徴と言えるだろう。温厚で知られる賢帝と、彼
に仕える二十人の聖騎士侯によって統治される、巨大な帝国。将来、国を担う
身の彼にとっては、その安定ぶりは憧憬の念を抱く対象といえるはずだ。
 だが、表面的な安定の影には暗い部分も多々ある。先ほどの男たちのように、
生きるためにと他者を食らう者も帝国の一因子として存在しているのだ。『国』
という巨大な生物の全てが美しいなどというのはあり得ない事だが、その辺り
の認識がまだ甘いであろうレフィンには、それは厳しい現実だったはずだ。
「どーでもいいとこ、親父さんにそっくりだね」
 ふともらした呟きにフレアがえ? と怪訝そうな声を上げるが、アキアはそ
れに答えなかった。正確には、その余裕がなかっただけ、なのだが。冥魔がい
ななきを上げてこちらに突進してきたのだ。アキアはとっさにフレアの手を引
いて横に飛び退き、それを避ける。すれ違いざまにちらりと見たレフィンの表
情は虚ろで、目の焦点は全く合っていなかった。
「まずいな……」
 心持ち眉を寄せつつ、アキアは低く呟いた。
 冥魔と発生させた人間の関わり方には、いくつかのパターンがある。一つは
内にこもるもの。ある意味、最も一般的なものだ。この場合は内側で膨れ上が
った力が人間を暴走させ、冥魔が永封されなければ身体的な負担から死に到る。
 次に、全く相互の関わりがないもの。これは戦乱の世に多く発生する。複数
の人間の負の感情が集まり、無作為に冥魔を生み出してしまうのだ。アイルグ
レスの地下に潜伏していた冥神司祭ベルティスは、これを応用して具象化した
冥魔を作り出していた。
 そしてもう一つが、今のレフィンの状態――発生させた人間を冥魔が自らの
核に据え、その生命力を吸収して自分の力とするもので、非常に厄介な状況と
言える。冥魔が核とした人間の生命力を吸い上げてしまうため、素早く対処し
なくてはならないのだ。でなければ、核が死に到る。それはわかっているのだ
が。
「っとおっ!?」
「きゃんっ!」
 対処しようにも、間断なく繰り出される突進がそれを思うように行かせない。
今回のような場合、永封する前にレフィンと冥魔を切り離す隔絶を行わなけれ
ばならないのだが、そんな手順を踏む余裕もないのだ。何より、フレアからヒ
ューイを受け取る余裕がないのだから、話にならない。
 魔法で足を止める方法もなくはないが、髪止めの螢石を媒介とした魔法には
わずかな力の集中が必要になる。これもヒューイを手にしていれば無用のもの
なのだが、言った所で始まらない。ヒューイ単体でも魔法を使う事はできるが、
この規模の相手を押さえ込めるだけの効果は望めないだろう。
 アキアがヒューイを手にしていない。それだけの事で、状況は見事な手詰ま
りとなっていた。それをどうすべきか悩んでいる間にも、レフィンの生命力は
吸い出されて行く。
(せめて、核を……王子と冥魔を引き離せればっ!)
 それだけで状況は一気に良くなるのに――アキアが苛立ちながらこう考えた
時。
「きゃっ!」
 フレアが短い悲鳴を上げた。どうやら、暗がりの中で何かに足を取られ、よ
ろめいたらしい。振り返ると、木の根元に座り込んで顔をしかめるフレアの姿
が目に入った。倒れた弾みに、腰を打ったらしい。
「お嬢!」
『アキア、来てんぜ!!』
「ちいっ!」
 苛立たしげな舌打ちの直後に、アキアは非常手段を選択していた。座り込む
フレアの前に立ち、両手を前に突き出す。
「わが真なる『もう一つの名』において命ず! 集え!!」
 短い言葉に応じるように、真珠色の光が弾けた。光は壁となってアキアの前
に広がり、突っ込んできた冥魔はその光を恐れるように急停止し、後ろに下が
った。
「このままじゃ、埒が開かないな……」
 取りあえず後退させる事はできたものの、状況は変わらない。取りあえず、
今の内にヒューイを、と思った矢先に、思いも寄らない事態が起きた。
「……ばか……」
 座り込んでいたフレアが、ぽつんとこう呟いたのだ。唐突な呟きにアキアは
思わずきょとん、としつつそちらを振り返り、怒りで真っ赤になった顔と、微
かに潤んでいるようにも見える碧い瞳に一瞬気圧された。
「お……お嬢?」
 そーっと投げかけた呼びかけは、どうやら届いてはいないらしい。ふるふる
と震えているフレアの睨むような目は冥魔に捕われたレフィンにのみ向けられ、
アキアは現在視界に入ってはいないようだ。ただならぬ様子と、その周囲に渦
巻き始めた目に見えない力にアキアは息を飲む。
「っ! お嬢!!」
 押し止める声は、届かなかった。
「レフィン様のぉ……ばかああああっ!! 何で、いっつもそうなのよーっ!!」
 夜の森にフレアの絶叫が響く。その声に怯むように冥魔がじりっと後ずさり
した。とはいえ、後ずさりの理由は声ではない。絶叫と共にフレアの周囲の力
の渦が弾け飛び、それが冥魔へと飛んだのだ。
「……ちっ!」
 何度目かの苛立たしげな舌打ちと共に、アキアはフレアの傍らに膝を突く。
フレアは妙に疲れたようにぐったりとしていた。今の絶叫だけでそうなったの
ではなく、それと共に放出した力のためだ。
「お嬢、ヒューイ借りるよ!」
 短く告げて、アキアはフレアの腰からヒューイを外す。立ち上がってヒュー
イの鞘を払いながら振り返ったアキアは、今フレアが放った力に取り巻かれ、
それから逃れようとするかのように激しく暴れている冥魔の様子に眉を寄せた。
『どーする、アキア!?』
「不本意ではあるが……この際、使えるものは何でも使う! 制御するぞ!」
 問いかけに苛立ちを交えて答えつつ、アキアはヒューイを一振りして長剣へ
と姿を変えさせる。ヒューイはりょーかいっ、と応えて金緑石の上に光を瞬か
せた。
『波長、合わせんぜ。トチんなよ!』
「誰に向かって言っているのかな、ヒューイくん?」
『お前じゃなかったら、言わねーよ!』
 切迫しているのか余裕なのか、会話を聞いていると良くわからない。だが、
いつにも増して鋭いアキアの瞳はその緊張を物語っていると言えるだろう。ア
キアはヒューイを構えた左手を前へと伸ばし、銀の切っ先を冥魔に向ける。
「『解封』を司りし『巫女』より生じし無垢なる力、あまねく煌めきを統べし
(すめらぎ)の名において、我が導きに従う事を命ず……」
 静かな言葉が歌うように紡がれて行く。それに伴い、冥魔を取り巻く力が淡
い光を放ち始めた。美しいが、どこか冷たい銀色の光だ。それを見て取るなり、
アキアは走り出す。
「はああっ!」
 一気に冥魔との距離を詰めたアキアはヒューイを一閃し、レフィンのちょう
ど目の前に深い切れ込みを入れた。冥魔が鋭いいななきにも似た叫びを上げて
足を振り上げる。勢いをつけて振り下ろされたそれを、アキアは難なく避けて
見せる。
「『解封』の力よ、心の闇に捕われし者、尽きぬ虚無より解き放ち、疾く、消
えよ!」
 アキアの声に従うように、銀の光を放つ力が切れ込みから冥魔の内側に入り
込んでレフィンを包み込んだ。冥魔はその侵入に抗うように激しく暴れるが、
力の流れを押し止める事はできない。冥魔の内側に入り込んだ力はレフィンと
馬とをくるりと包み込み、そこから消え失せた。
「……あ……」
 消え失せたレフィンにフレアが短く声を上げる。
『心配すんな、お嬢!』
 フレアの心に生じた不安は、ヒューイの言葉の直後に払拭された。フレアか
らやや離れた所に光が弾け、冥魔の中から消え失せたレフィンと馬が姿を現し
たのだ。包み込んでいた銀の光が粒子となって飛び散ると、レフィンはずるり
と馬の背から滑り落ちる。
「っ! レフィン様!」
 そのまま動かなくなったレフィンに、フレアは上擦った声を上げてそちらに
駆け寄った。
「向こうは、これで良し、と……」
 その様子を横目で見つつ、アキアはひとまず安堵の息をもらす。
『あとは、アレだな』
 それに答えるヒューイの声にも、安堵の響きが感じられた。
「ああ……だけど、その前に……」
 冥魔に視線を向けつつ、アキアはかすれた声で呟いた。これに、ヒューイは
わあってる、と軽く応じる。
『っても、切り過ぎんなよっ!? お前、普通の治癒は受けつけねーんだから!』
「善処、しましょう」
 こう言うなりアキアは奇妙な行動を取った。ヒューイの刃を自らの右腕に当
て、そのまま深く食い込ませる。夜闇の中に、真紅がこぼれ落ちた。
『言ってる側から、切り過ぎだばかやろお〜!!』
「あはは……事故、事故」
 それですむ問題とも思えないのだが。ヒューイはぶつぶつと文句を言いつつ
金緑石から光を放つ。光は傷口からアキアの身体の中へと入り込んで、消えた。
「……悪いな」
『しっかたねーだろ! それより、ホレ!』
 本当にすまなそうな呟きを軽く流して、ヒューイはアキアを急かす。アキア
はああ、と頷いて冥魔に向き直った。依り代であるレフィンを失った冥魔はそ
の形を失い、ぐるぐると渦を巻く青白い光の渦に姿を変えている。どうやら、
このまま飛び去ろうというつもりらしい。
「悪いけど、逃がす訳にはいかないよ……」
 低く呟くと、アキアは自分の血に濡れたヒューイを冥魔へ向けた。
「……『白銀の封印師』ヴェラキアの名において、今、ここに封印の力を生み
出さん……」
 銀の刃を虹色の光が美しく飾り立てる。光は輝きを増しつつ光の渦となった
冥魔へと飛び、それを捕える縛となった。アキアは一つ深呼吸をしてから、冥
魔を見据える。
「冥魔、永封……今ここに、無光の封印をなさしめん!」
 ヴンっ!
 横に払われた剣が夜気を切り裂き、虹色の光の縛は一際美しい輝きを放ちつ
つ、捕えた渦諸共に煌めく粒子となって飛び散った。全ての光の粒子が消え失
せると、森の中の街道には妙に重苦しい夜気が残される。
「アキア」
 冥魔の消滅を確かめ、一息ついていると不安げな声が名を呼んできた。声の
方を見ると、フレアが不安げな面持ちで立っている。その目は、右腕の傷に向
けられていた。
「ああ……大丈夫だよ」
「でも、血がいっぱい……」
 笑いながら言うものの、やはりフレアは納得せず、眉を寄せて傷を見つめて
いる。
「……取りあえず、止血はするから。ちょっと、手伝ってくれるかな? それ
がすんだら、落ち着ける場所を探そう。彼も、心配だしね?」
 レフィンの方へ視線を投げかけつつこう言うと、フレアは大げさにため息を
ついた。
「ほんっとにもう! レフィン様ってば、いっつもこうなんだからぁ〜。思い
込みで、すぐに失敗してぇ!」
 憮然として言う、その言葉にアキアはただ、苦笑するのみだった。

 取りあえず右腕の傷に簡単な手当てをすると、アキアはぐったりとしたレフ
ィンを馬に乗せてその場を離れた。どたばたしている間に夜は更け、木々の隙
間から月の影が見え隠れしている。
 街道を少し進むと、横手に涌き水を中心に開かれた空間が見えた。旅人たち
の休息所として作られた場所だろう。取りあえずそこで休息する事に決めると、
アキアは敷布と毛布で簡単な寝床を作ってそこにレフィンを休ませ、落ち着い
た途端空腹を訴え始めたフレアに簡単な食事を用意してやった。
 それらが一通りすむと、アキアはヒューイと共にその場を離れる。フレアは
やや不安そうだったが、「遠くには行かないから大丈夫」となだめすかして納
得させた。
「……ふうっ」
 夜営地を離れたアキアは、目に入った巨木の枝に一跳びで飛び乗り、太い幹
にもたれるようにして腰を下ろした。
『無事か?』
 疲れたように息を吐くアキアに、ヒューイが問いかけてくる。それに、アキ
アはああ、と頷いた。
「しかし……何と言うか……」
『ああ。オレも驚いたわ』
「あそこまで強い力を秘めているとは、正直思わなかったよ」
 ため息まじりに呟く言葉には、微かに戦慄らしきものが感じられた。
『歴代でも、トップクラスじゃねぇか?』
「……恐らく。それだけに、危険だ」
 呟く瞬間、アキアの瞳はいつになく鋭く、厳しい光を宿していた。
『ホントにな。ところでよ、アキア』
「ん?」
 唐突に改まったヒューイの口調に、アキアはややきょとん、とする。
「どうした?」
『お前、最後に『あれ』やったの、いつだ?』
「……っ!」
 静かな問いに、何故かアキアは表情を強張らせた。
『外側が何て事ねぇんで気にしちゃいなかったけどよ。内側、そうっとう、ガ
タきてねぇか? きちっと定期的に『あれ』やってりゃ、そこまで酷かねえは
ずだぜ?』
 どこまでも静かに、ヒューイは問いを継ぐ。アキアは形の良い唇を噛み締め
たまま、何も言わない。わかっているからだ。答えを出せば、ヒューイが激怒
する事が。
『アキア……』
 沈黙に焦れたのか、ヒューイが更に問いを重ねようとした時、
「レフィン様のっ……レフィン様の、ばかああっ!!」
 フレアの絶叫が響き渡った。通算三度目の『レフィン様のばか』と、それに
続くフレア! というかすれた叫びに、アキアは頭痛を感じて額に手を当てる。
「……な、なんなんですか、あの二人は……」
 ラブコメ要員。一言で言えば、そうなってしまうだろう。フレアにとっては
相当に不本意だろうが。

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