目次へ


   ACT−2:狭間の街に潜むもの 06

「……」
 消えない不安を抱えたまま、フレアはじっと窓越しの夜空を見つめていた。
部屋に入ってきたヴァシスはその様子に微かに眉を寄せ、それから、どうなさ
いました? と穏やかに問いかける。その声に我に返ったフレアはぎょっとし
たようにそちらを振り返った。
「あ……大司教様。いいえ、なんでも」
 ヴァシスの問いにフレアはとっさに笑顔を作ってこう答えていた。とはいえ、
それが虚勢であるのは誰の目にも明らかだ。
「……心配なさらずとも、アキア殿は大丈夫ですよ。こう言った手合いの荒事
には、慣れておいでの方だ」
「……え?」
 静かな言葉にフレアはきょとん、と瞬き、それから怪訝な面持ちでヴァシス
を見た。
「なんですかな?」
「大司教様……どうしてそんなに、アキアの事に詳しいの?」
 ストレートな問いにヴァシスは微かに笑みを浮かべた。
「それは、申し上げかねますな。機会があれば、アキア殿ご自身からお話があ
るでしょう」
「むー……大司教様もヒューイと同じ事、言う……」
 やんわりと受け流され、フレアは不満げに頬を膨らませる。皆、こうなのだ。
フレアの知らないアキアの事を知る者は、そろってこう受け流してしまう。
「そう、怒らないでいただけませんか、フレイアリス殿?」
 むくれるフレアを、ヴァシスはさらりと彼女の本来の名で呼んだ。フレアは
はっと目を見張り、一転、怯えたような目をヴァシスに向ける。
「あ、あの……えっと……」
「ご心配なく、王都に知らせてはおりませぬよ」
「……ホントに?」
 不安げに問うと、ヴァシスははい、と頷いた。この返事に安堵しつつ、同時
に疑問を感じてフレアは首を傾げる。
「でも……どうして?」
 居場所が知られずに済むのはありがたいが、それはそれで疑問となる。本人
の意思が介在していないとはいえ、次代の王妃と定められているフレアはクラ
イズ王国にとっては重要人物だ。そのフレアが国を出ようとしているのを、大
司教という立場にいる人物が見逃すというのも、妙な話に思えた。
 まして、大司教ヴァシスとクライズ国王レオンは建国戦争を共に戦った同志
であり、王子レフィンとも個人的にも親しい間柄にある……はずなのだが。
「我らフェーディア神殿は、政には関わらぬのが掟ですからな」
 不思議がるフレアにヴァシスはさらりとこううそぶいてみせるが、それだけ
ではない事は容易に察する事ができる。フレアはきゅっと眉を寄せると、上目
遣いにヴァシスを睨んだ。
「なんですかな?」
「……それだけじゃないでしょ?」
「さて、どうでしょう?」
「あー、大司教様まで、アキアと同じ誤魔化し方するうっ!」
 低い問いをまたも穏やかな笑みで受け流されたフレアは拗ねた声を上げ、そ
れにヴァシスが答えようとしたその時、
「それだけの理由がある、と言う事さ」
 低い声が室内に響いた。そこにいる誰の物でもない声にフレアは戸惑い、ヴ
ァシスは表情を険しくする。
『……その声は……』
 柄の金緑石をちらちらと瞬かせつつ、ヒューイが低く呟いた。いつになく厳
しい口調にフレアはえ? と言いつつヒューイを見る。
「ヒューイ、どしたの?」
『あ〜、やぁだなぁ、ヒュー兄さんってば。ご機嫌ナナメ〜?』
 戸惑いながら投げかけた問いにヒューイが答えるより早く、場の緊張には似
つかわしくないお気楽な声が響いた。直後に部屋の一画に淡い紫の光が弾け、
そこから滲み出るように人の姿が浮かび上がる。黒衣に身を包んだ、黒髪の華
奢な少年だ。顔つきがどことなくアキアに似ているな、と思った直後にフレア
は少年の目が左右で異なる事に気づいて息を飲んだ。
 左は緑で右は青。アキアのそれと色は異なるが、同様の美しさを備えたその
瞳は冷たくフレアを見つめていた。
「あ……あなたは?」
『ファヴィス! テメエ、何しに来やがった!?』
 フレアの問いに少年が答えるより早く、ヒューイが鋭く問いを発した。ファ
ヴィスと呼ばれた少年は、冷たい一瞥をフレアの抱えた短剣に投げかける。
「愚問だね、ヒュペリウス。とはいえ、今日は本来の目的で来たんじゃない」
『んだとお……?』
『ヒュー兄さん、少し静かにしよ〜よ〜。ファスは兄さんに用はないんだよ〜、
あるけど』
 低い問いを遮るようにまたお気楽な声が響いた。声に合わせるように、ファ
ヴィスの腰の辺りに淡いオレンジ色の光が瞬く。
『ラディッサ! テメエは喋るな、うるせえからっ!』
『あ〜、それってヒドイなあ。兄さんイジワル〜』
「……ラディ、静かに」
 どこまでも軽く言う声をファヴィスは淡々と遮った。ラディッサと呼ばれた
それは、は〜い、と言ったきり沈黙する。場が一まず静かになると、ファヴィ
スはゆっくりとフレアに目を向けた。冷たい緑と青にフレアは気圧される。
「あいつのやる事に干渉するつもりはないんだが、今度ばかりは、ね。多少、
相手を甘く見ている節もあるから手を出させてもらう。一緒に来てもらうよ」
「……え?」
「この方を、どうするおつもりかな?」
 淡々とした言葉にフレアは困惑し、ヴァシスが低く問いを投げかけた。ファ
ヴィスはうるさそうな一瞥を大司祭に投げかける。
「別に、どうもしない。『今』は、その必然もないからね」
「『今』は?」
「そう……『今』は」
 意味深な物言いに眉を寄せるヴァシスに短くこう言うと、ファヴィスは素早
くフレアに近づき、有無を言わせずその手をつかんだ。
『ファヴィス!』
「静かにしろ、ヒュペリウス……このままここにいて、『彼女』に封じられる
気か?」
『……っ!?』
 ファヴィスの短い一言に、何故かヒューイは沈黙してしまう。明らかにいつ
もと違うその様子にフレアは戸惑うが、状況はそんな余裕を与えはしなかった。
「『影輝王』の名において、道を」
 ファヴィスが短く呟き、紫の光が二人をくるりと包み込む。光が弾けた後に
その姿はなく、残された形のヴァシスは小さくため息をついた。
「……女神よ、どうかお二人にご加護を」
 低く祈りを捧げてはみるものの、アキアの無事を女神に祈るのが無意味であ
る事を、彼は過去の経験から思い知っていた。
「……どうか、ご無事で……」
 願いを込めた呟きが、窓越しの夜空へと溶けていく。

 ……キンっ!
 甲高い音が響き、光の剣が黒い刃を弾く。相手が態勢を崩した瞬間を逃さず
踏み込んだアキアは、振り上げた剣を返す形で切り下ろしの一撃を叩き込んだ。
「……がっ」
 うめくような声と共に男が倒れる。宙に待った真紅を優雅とも言えるステッ
プでかわすと、アキアは素早い垂直ジャンプで左右挟撃してきた男たちの攻撃
をかわした。着地の動きに一歩遅れて、広がった髪がふわり、と白い神官衣の
上に舞い降りる。
 黒衣の男たちは既に五人が地に伏している。全員、与えられているのは一撃
だが、それら全てが決定打となっていた。それでいて全員、虫の息だが息はあ
るのだ。一撃で倒してしまうよりもこの方が技量を要するはずだが、アキアは
それを苦もなくやってのけていた。
 左右挟撃に失敗した男たちは衝突直前に足を止め、同時にアキアに向き直っ
て刃を振りかざしてきた。アキアは余裕の表情のまま、ひょい、と横に飛んで
一方の側面を取り、一撃を加える。真紅が舞い、また一人が倒れた。
 それでも男たちは怯んだ様子もなく、攻撃を仕掛けてくる。傷を受ける事や
死への恐れは、その様子からは微塵も感じられない。いや、そもそも感情らし
きものが伝わってこないのだ。まるでそれそのものが存在していないかの如く。
「……何が楽しんだかね……あんなものに、心、食わせて!」
 苛立ちを込めて吐き捨てつつ、アキアは優雅な動きで光の軌跡を描く。蒼白
い灯火の下、真珠色の刃が煌めきながら真紅を散らした。これで七人、ちょう
ど半分だ。
「我らが神を、愚弄するか」
 不意に、男の一人がこんな言葉を発した。それまでは無表情だった顔に、微
かな憤りらしきものが見える。その怒りに、アキアはふっとクールな笑みを向
けた。
「神だと? ふ……あれを神などと称し、崇める事。それ自体が『神』という
言葉に対する冒涜だな」
「……貴様」
「所詮、あれは人の心の闇より生じた力が、肥大化しただけのもの……ただの、
化け物だ!」
 こう言い切るのと同時に、アキアはだっと走り出す。
「古の盟約において、『封印師』の一族が汝に命じる。『風』に属す者、我が
意に沿い、我を守護する壁となれ!」
 早口の言葉に応じるように髪留めの螢石が煌めき、緑色の光の粒子をはらん
だ風がアキアの周囲を取り巻いた。風に包まれたアキアは残った男たちに真っ
直ぐ突っ込む。風は振るわれた刃ごと男たちを弾き飛ばし、アキアは容易に通
路への突破を果たした。先ほどの祭壇の間へと続く通路を確保したアキアは、
くるりとターンを決めて男たちに向き直る。
「『風』よ、戒めの刃となりて、妄執に囚われし者どもに一撃を与えよ!」
 鋭い言葉に応じるように風が唸りを上げた。護りの壁は一転、鋭い刃となっ
て黒衣の男たちに一撃を与える。それでも剣の一撃と同様に絶命には至らせな
い。わかっているからだ。彼らの命を奪う事が、アキア曰くの『化け物』を喜
ばせる結果になると。
「まったく……あんな厄介者に、憑かれるんじゃないってのに」
 処置なし、と言わんばかりに呟くと、アキアは祭壇の間へ向けてゆっくりと
歩き出した。蒼白い灯火に照らされた祭壇の間は、先ほどと同様に静まり返り、
人の気配は今の所ない。それと確かめると、アキアは祭壇の奥、八本腕の像に
鋭い目を向けた。
「冥神……貴様に力を与える訳にはいかない」
 いつになく真剣な表情で低く呟くと、アキアは光の剣を像へと向けた。

← BACK 目次へ NEXT →