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   21

 黒い羽と、紅い飛沫。
 全く異なる色彩を持つ二つの物が、ほぼ同時に空間に乱れ飛ぶ。
「……」
 身体が震えているのがわかった。心臓の鼓動が早くなり、息が苦しくなる。
声が出ない。言いたい事は、たくさんあると思えるのに。
 黒い羽毛の乱舞はゆっくりと静まり、羽が、ふわり、と床に広がる真紅の上
に舞い落ちる。凄惨だが、どこか美しい二色の交差。だが、シーラにとってそ
れは悪夢以外の何物でもない。
「……」
 どうすればいいのか、本気でわからなかった。悲鳴を上げるとか泣き叫ぶと
か、できそうな事はいくらでもありそうなのに。だが、そうしてしまうと目の
前の出来事を受け入れなければならないように思え、そしてそれはどうしても
嫌で……シーラは、呆然と黒と紅を見つめるしかできなかった。
 静寂が重苦しく圧し掛かる。何の音もない空間。今でも、その只中にいた事
はある。だが、ここまで静寂を重く感じた事はなかった。
 静寂を破りたい。でも声が出せない。
 目を閉じたい。でも、それもできない。
 静寂という呪縛、それが息苦しさをもたらし始めた時。
「……だ……」
 微かな声が大気を震わせた。静寂が揺らぎ、シーラははっと我に返る。
「ダメ……だ……」
 また、声が聞こえた。光の刃に貫かれ、微動だにしなかったゼオの身体が微
かに震えている。その身体がぐらつき、前のめりに倒れかかるが、ゼオは床に
両腕を突いて身体を支え、倒れ込むのを押し止めた。
 ……パキィィィン……
 澄んだ音が響き、少年を貫いた光の刃が砕け散る。煌めく粒子が周囲に飛び
散り、そこだけ幻想的な雰囲気を織り成した。
「……ダメ……だ……死ねない……約束……した……んだ……」
 ゼオがかすれた声を振り絞るように呟いた。だが、今までとはどこか違う。
今までの、感情を押し殺した低い声ではないのだ。そして、その声はシーラの
記憶に懐かしく響く。
「約束……守る……死ねない……? 何が? 何……を? 何故? オレ……
は?」
 突然の事に呆然としていると、ゼオがまた、声を上げた。その呟きには、は
っきりそれとわかる困惑が現れている。
「何? オレ……は? 一体、ナニ、モノ? オレは……オレは……」
 ゼオの身体が大きく震え、傷口から真紅の塊がこぼれ落ちた。びしゃ、と音
を立てて床に広がるそれにシーラは息を飲み、ふらふらと立ち上がる。手当て
をしなければならない。理屈抜きで、そう思ったのだ。
 失うのは、嫌。
 理由を問われたなら、恐らく迷う事なくこう答えるだろうが。
 ゆっくりと、歩みを進める。ほんの少しの距離のはずなのに、やけに遠いよ
うに感じるのは、足に力が入らないからだろうか。
 何もできないのは、嫌。
 何もできずになくしてしまうのは嫌。
 ともすればくずおれてしまいそうな足をこう繰り返す事で叱咤しつつ、シー
ラはゆっくり、ゆっくりとゼオに近づいて行く。そしてようやくその傍らまで
到達した時、ゼオが低くこう呟いた。
「オレ……は、ナニ? ナニモノ?」
「……リック!」
 その呟きに、シーラは自分の出せる唯一の答えを返していた。ゼオの身体が
大きく震える。その場に広がる真紅を気に留める事なく、シーラはゼオの傍ら
に座り込んでその顔を覗き込んだ。
「……」
 気配に気づいたのか、ゼオが顔を上げてこちらを振り返る。黒い瞳がどこか
ぼんやりとシーラを見つめ、直後に、ゼオは特に酷い腹部の傷を抑えて身体を
丸めた。苦しげな表情が、傷の与える痛みを端的に物語っている。
「リック! リック、しっかりして!!」
「だ……だいじょう……ぶ……」
 夢中になって呼びかけると、黒翼の少年はかすれた声で言いつつ顔を上げる。
その表情にシーラははっと息を飲んだ。
 穏やかで、優しい笑顔。
 蒼白な顔色とじっとりと滲んだ汗が状況の深刻さを物語ってはいるが、しか
し、その微笑みと少年が次に口にした言葉は刹那、シーラにそれを忘れさせた。
「大丈夫、だから……心配、しないで……シーラ」
「……っ!!」
 身体が大きく震えたのが、自分でもはっきりとわかった。言葉が浮かばない。
声が出ない。喜びと、状況に対する恐怖とが絡み合い、頭の中が真っ白になる。
そんなシーラを、少年は穏やかな笑顔で見つめていた。その笑顔を見つめつつ
シーラは言葉を探し、それから、ようやく探し当てた言葉を問いとして投げか
けた。
「……リック……だよ、ね……?」
「うん……そう、だよ」
 震える問いに少年は――リックはこう言って頷く。その瞬間、想いが弾けた。
「リック……リック!!」
 弾けた想いの導くまま、シーラはリックの胸に飛び込んでいた。ほんの一瞬
顔をしかめるものの、リックはシーラを受け止める。
「ダメだよ、シーラ……血が、つくから……」
「だって! だって、だって……」
 言葉が上手くまとまらず、シーラは半ばしゃくりあげるようにだって、と繰
り返すしかできなかった。そんなシーラの様子にリックは苦笑めいた表情を見
せ、直後に傷が痛んだのか、くっ、とうめいて顔を歪めた。
「……! リック!」
 それに気付いたシーラははっと顔を上げ、それからつい失念していた事――
リックが重症を負っていた事を思い出した。血は、まだ止まってはいない。出
血の量は相当なものだ。
「ど、どうしよう……どうすれば……」
 血の臭いが冷静さを失わせ、シーラはおろおろとしてしまう。応急処置がど
うの、というレベルでは既にない。そして、最も適切な対処ができるであろう
ラヴェイトは、ここにはいない。それらの事が導く結論――このままではリッ
クを失う、という事実が更に動揺を助長した。
「大丈夫だよ……大丈夫。オレは……死なない、から……」
「そんなのっ! そんな事……言われたって……」
「心配、しないで……大丈夫だ」
 動転するシーラにリックは穏やかに微笑みつつこう言うが、滴り落ちる真紅
の雫と蒼白い顔を見ては、それを額面通りに受け取るのは容易ではない。どう
していいのかわからなくなったシーラは、リックの身体に回した手に力を込め
た。それで血が止まる訳ではないのはわかっているが、そうする事しか思いつ
かなかったのだ。
「……リック……ごめんね」
「え?」
 ぎゅっと抱き締めつつ、震える声で告げた言葉にリックはやや戸惑ったよう
だった。
「どうして……謝るの?」
「だって……あたしのせいで、いつも……ちっちゃな頃から、ずっと……」
 それは、幼い頃からずっと思っていた事だった。自分のためだからと、無茶
をしては、怪我をしたり寝込んだりを繰り返してきたリック。その事に、シー
ラは強い喜びと共に罪悪感に近いものを感じていたのだ。

『リック、その内壊れちゃうんじゃないの?』

 以前、幼なじみのメリアに言われた言葉がふと蘇る。
 言われた時はどう返して言いかわからず、でも、心の片隅に鋭く刺さったそ
の言葉が今、痛い。
「……違うよ、シーラ……それは……違う」
 リックはしばし困惑していたようだったが、やがてふっと微笑んでこう呟い
た。シーラはでも! と言いつつ顔を上げる。
「シーラのせいじゃ、ない……オレは自分で……自分が、そうしたいから……
シーラを、護ってた。確かに、カラ回りして、失敗する事、多かったけど……
それで、シーラにも、ルフォス様や、他の人たちにも、心配や、迷惑かけたけ
ど……でも、オレは……シーラが……」
 ここでリックは言葉を切り、苦しげな息をもらした。
「リック!」
「……大丈夫」
 慌てて呼びかけるとリックは短くこう返すが、先ほどよりも苦しげな様子が
不安を助長する。
「大丈夫って……でも、でもっ!」
「死なない。それに……負けない。今は……シーラが、いてくれるから……」
 かすれた声でこう言うと、リックはシーラをぎゅっと抱き締める。
「あたしが……いる、から?」
 戸惑いながら問うと、リックは一つ頷いた。
「そう……あの時は、一人で……何がなんだかわからなくなって、それが怖く
て……オレは、自分を閉ざしたんだ」
「……どう言う事?」
 不安と戸惑いを込めた問いに、リックは大きく息を吐いた。話すのも、大分
苦しくなっているらしい。
「……死にそうになって……自分の、力が……暴走、して……それで……それ
が……その力が、怖くなって……オレ……流され、たんだ……」
 それでもリックは途切れとぎれに言葉を綴る。その身体がどんどん冷たくな
っている事に気づいたシーラは、両腕に力を込めた。
 失いたくない、繋ぎとめたい。ようやく逢う事ができたのに、また離れてし
まうのは嫌――そんな思いが、腕にこもった。
(もし、あたしに力があるなら……お願い……一番大事な人のために、それを
使わせて……!)
 力があると感じつつ、しかし、思うようにそれを使えないもどかしさがこん
な事を考えさせる。その願いに答えるように、ポーチから碧い光がもれた。光
は数回ちらちらと瞬いて消え、その瞬きに応じるように二人の周囲に白い光が
ふわふわと漂い始めた。
「な……なに?」
 突然の事にシーラは上擦った声を上げる。白い光の球は少しずつその数を増
やして二人を取り巻いた。
「……」
 唐突な出来事に対する戸惑いはある。しかし、何故か警戒や恐怖は浮かばな
かった。この白い光は自分の敵ではない、自分たちを害する存在ではない――
理屈ではなく、感覚がそう思わせた。シーラはそっと右手を白い光の方へ差し
延べてみる。紅く濡れた華奢な手の上に、光球の一つがふわりと舞い降りた。
――みこさま――
――みこさまだ――
 白い光が手に触れると、頭の中に声が響いた。舌足らずな子供を思わせる甲
高い声は、先ほどの不協和音とは打って変わって心を落ち着けてくれる。
――もどられた――
――しろとくろのみこさまたちだ――
――でもくろのみこさまがたいへん――
――おたすけしなきゃ――
――おたすけしなきゃ!――
 白い光たち――恐らくはあの目と同様の思念体なのだろうが、それらはちら
ちらと瞬きながらこんな言葉を交わしていた。交わされる内容にわずかに戸惑
うものの、『おたすけしなきゃ』という言葉は、シーラにとっては希望の光明
そのものだった。
「助けて……たすけてくれるの、リックを!?」
 思わず声を上げると、光球たちはそれを肯定するようにちらちらと瞬く。
――おたすけする――
――おまもりする――
――そのために ぼくら ずっとまってた――
――みこさまたちを おまもりすること――
――ひめさまのおいいつけ――
――はたそう――
――はたそう!――
 言葉と共に光球はその数を増し、二人を包み込んだ。空間が揺らめくような
心地がし、足元の感触が変わる。ついさっきまでのぬるりとした血溜まりのそ
れから、柔らかな草のそれへと。シーラがその変化を認識するのと同時に光球
たちがふわりと飛び散り、目に入った周囲の様子にシーラは目を見張る。
「……ここは……ここも、精霊庭園?」
 鮮やかに生い茂る緑の美しい空間。そこは、都市に入って最初に踏み込んだ
場所と良く似ていた。だが、最初の所とはどうやら場所が違うらしい――そん
な事を考えていると、一度は飛び散った光球たちが再び周囲に舞い降りた。
――しろのみこさま おきがえ――
「……え?」
 光球の伝えてきた唐突な言葉に、シーラはきょとん、と瞬く。
「おきがえ……って?」
――みそぎとおめしかえ――
――ぼくら くろのみこさま おたすけする――
――しろのみこさま そのあいだおきがえ――
「え……でも……」
 確かに、リックの血を吸った今の服の間まではいられないだろうが、しかし、
それによってリックと離れる不安から、シーラは微かに眉を寄せた。その不安
を感じたのか、光球たちはまたちらちらと瞬く。
――だいじょぶ――
――だいじょぶだから――
――くろのみこさま ちゃんとおたすけするから――
――ぜったいに だいじょぶだから――
――だからしろのみこさま――
「……わかったわ」
 光球たちの訴えに、シーラはため息と共にこう言って頷いた。不安は尽きな
いが、自分にはリックの傷をどうする事もできないのはわかっている。それに、
この光球たちは信頼できる事も感じている。
「……リック、大丈夫よね……?」
 小声で囁きつつ、シーラはリックの身体に回していた手をそっと離した。リ
ックは微かな笑みを浮かべてわずかに頷き、力が抜けたように草の上に倒れ込
む。その周囲に白い光球が次々と舞い降り、やがて、リックの姿は光球の作る
ドームに包まれて見えなくなった。
「……リック……」
――しろのみこさま こっち――
 不安げに呟くシーラを別の光球が促す。シーラはこくん、と頷いて立ち上が
った。

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