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   18

「……来たか」
 かすれた呟きが静寂を退けた。直後にばさり、という音が響き、淡い光が彼
のいる空間を照らし出す。光に照らされ、彼はやや目を細めた。長く暗闇の中
にいたためか、わずかな光も眩しく思えてしまう。
「『運命』を紡ぐ者たちが、集いつつある」
 ややくぐもった低い声が大気を震わせ、黒衣に身を包んだ仮面の男が姿を見
せた。静かな言葉に彼はふ、と笑んで見せる。仕種に合わせるように、踝付近
まで伸びた漆黒の髪がさらり、と流れた。
「君はいつも唐突に現れるな、『調律者』」
「先に声をかければ、亡者どもを刺激しよう?」
 からかうような言葉に『調律者』――ギルは淡々とこう答え、この言葉に彼
はくくっと低く笑う。漆黒の髪と、碧い瞳の青年。だが、その表情には外見に
は似つかわしくない老獪なものが見て取れる。
「それで……あの子は?」
 一しきり笑うと、青年は表情を引き締めてギルに問いかけた。
「眠らせている。『監視者』との接触で、大分不安定になったようだ」
 ギルの答えに青年はそうか、と嘆息する。碧い瞳の陰りがより一層強くなっ
た。
「だが……今のままでは正しき選択は果たせぬ。荒療治が必要やもしれんな」
 そんな青年にギルは淡々と言葉を接ぎ、荒療治、という言葉は青年を苦笑さ
せた。
「あの子の事は君に任せている。それよりも問題は……」
「亡者どもか」
 言葉の先を引き取った問いに、青年は一つ頷く。
「あの子が……ライアがここに入れば、動き出すはずだ。レイフェリアが自ら
を封じている今、都市中枢機能に干渉できるのはライアのみ……」
「妄執を叶えるために、手段は選ばぬだろうな」
「そうだ。だが、私は動けぬ……」
「そのために、我がある。案ずるな『制御者』」
 苛立たしげな青年にギルは静かにこう言った。青年はそうだな、と呟いて微
かに笑んで見せる。
「では、我はゼオの所へ戻る。亡者どもの抑え、でき得る限り頼む」
「……成し遂げよう、白き翼の『制御者』カノン・リューナ・レイファシスの
名において」
 静かな宣言にギルは小さく頷いて、ゆっくりと踵を返した。現れた時とは逆
にその姿が闇に溶け込み、微かな羽ばたきの音が響く。来訪者の気配と共に淡
い光も消え失せ、そこは再び闇に閉ざされた。
「……ライア……ゼオ……」
 閉ざされた闇の中で、青年――レイファシスは小さく小さく、こう呟いた。

「それで、どうやって入るんですか?」
 都市の前までやって来ると、ラヴェイトがユーリにこう問いかけた。奇妙な
具合に斜めに傾いた都市は高い城壁に囲まれ、どこにも入り口らしきものはな
い。
「前に来た時ゃ、壁を登ってった」
 その問いにユーリはさらりとこう答え、シーラとラヴェイトを絶句させた。
「壁、登ってって、あの……」
 上擦った声で言いつつ、シーラは壁とユーリとを交互に見る。ラヴェイトは
やや呆然と、砂にまみれた白い城壁を見上げた。壁は、かなり高い。上から見
た時は気づかなかったが、こうして目の前で見上げると、その果てはほとんど
見えなかった。
「いや、一応入り口らしいモンは見つけたんだが……開かなくてな」
「入り口、らしいもの?」
 妙な言い回しにシーラは首を傾げる。ユーリはああ、と頷くと壁に沿って歩
き出した。戸惑いながらも二人はその後について行く。しばらく歩くと奇妙な
物が目に入った。
「……バルコニー……ですか、これは?」
 首を傾げつつラヴェイトが呟く。大人の胸ほどの高さの柵に囲まれた細長い
その空間は、そう称するのが適当だろう。それが城壁から突き出ている、とい
うのが何とも奇妙だが。
「恐らく、そんなモンだろうな。それが城壁に、それもこんな地上スレスレに
あるのが奇妙だがよ」
 その呟きにこう返すと、ユーリはひょい、と柵を飛び越えて手招きした。つ
いて来い、というのはわかるが、シーラにしろラヴェイトにしろ、胸の高さの
壁を飛び越えられるほど身体能力は高くない。困惑する二人の様子からそれと
気づいたユーリはばりばりと頭を掻きつつ、バルコニーの隅の方を指さした。
そちらを見ると、何故か柵の一部に巨大な岩塊が突っ込み、ひしゃげているの
が目に入る。岩を伝って行けば、内側に入れそうだった。
「……奇妙ですね」
 岩を伝って内側に入り、ユーリと合流するなりラヴェイトがこう呟いた。
「奇妙って、何がですか?」
 その呟きにシーラはきょとん、と瞬くが、ユーリは真面目な面持ちでそう思
うか? と返す。これにラヴェイトははい、と頷き、彼らの言わんとする所を
掴めないシーラはきょとん、としたまま二人の顔を交互に見た。
「まぁ、ここが妙ってのは、言い出すとキリねぇんだけどな……今の岩、ヘン
だと思わねぇか?」
 その様子に苦笑しつつ、ユーリはこう問いかけてくる。シーラはえ? と言
いつつ改めて岩塊を振り返って見つめた。柵の一部を突き破るようにしてそび
え立つ岩塊。言われて見れば、確かに奇妙かも知れない。
「縦方向の力がかからないと、ああはなりませんよね、普通……」
 同じように岩塊を見やりつつラヴェイトが呟いた。岩塊と柵の位置や柵のひ
しゃげ方からして、岩が下から突き上げたか、このバルコニー自体が岩の上に
落ちたか、いずれにしても縦の力の作用がなければこうはならないはずだ。そ
してバルコニーの材質の硬度からして、前者は理由としては考え難い。また、
バルコニーだけが落ちたと言うのも有り得ないだろう。
(それじゃ……この都市自体が、落ちたって事?)
 導き出された結論にシーラは目を見張る。短絡的と言えばそうだが、しかし、
その結論は妙に真実味を帯びていた。そして、『落ちた』という言葉は妙に心
に引っかかる。
(都市が落ちた……何かしら……凄く、嫌な感じがする……)
 こんな事を考えつつ眉を寄せていると、胸ポケットからアルが顔を出してき
ゅう、と鳴いた。その声に我に返ったシーラは大丈夫、と言いつつ砂漠ネズミ
を撫でてやる。アルが落ち着いた所で顔を上げると、ラヴェイトが心配そうな
面持ちでこちらを見つめていた。
「どうかしたんですか、シーラさん。ぼんやりして?」
「え? あ……なんでも。大丈夫です」
 ラヴェイトの問いにシーラはとっさに笑顔を作ってこう答えていた。ラヴェ
イトは微かに眉を寄せるものの、そうですか、と言うだけでそれ以上の追求は
しない。そんな場合ではない、と判断したのだろう。追求を免れた事にシーラ
はほっと安堵の息をつき、ふと、ユーリが難しい面持ちで壁を睨んでいるのに
気がついた。
「ユーリさん?」
 戸惑いながら呼びかけるが返事はない。怪訝に思いつつ近づいてもう一度名
を呼ぶと、ユーリはそこ、と言いつつ目の前の壁を指さした。唐突な言葉に、
シーラもラヴェイトも戸惑いながらユーリの示す壁を覗き込んだ。
 継ぎ目の全くない白い城壁に、そこだけ切れ込みのようなものがあるのが微
かに見て取れる。これが先ほど言っていた「入り口らしいモン」のようだ。
「……これ……」
「扉に見えるだろ?」
 ユーリの問いにシーラはこくん、と素直に頷いた。
「でも、これじゃ開けようがないですね」
 壁を見つめつつラヴェイトが呟く。そこには切れ込みがあるだけで、取っ手
のような物はついていない。仮にこれが扉だとしても、これでは開けようがな
いだろう。
「ああ。そんなもんだから結局諦めてな。壁、乗り越えてくハメになった」
 ラヴェイトの呟きにユーリは苦笑しつつ肩をすくめる。城壁の高さを考える
とそれも相当な無茶のような気もするが、ユーリにかかると不可能に思えない
のが何とも凄い。
「とはいえ、お前らにそれを要求するのは、いくらなんでもなぁ……ここが開
きゃいいんだが」
 ため息混じりの言葉は実感なのだろうが、同時に真理でもあった。シーラは
城壁を見上げ、直後に自分にはこれを登って越えるのは不可能だと判断する。
しかし、このままでは都市に入れない訳で、それは困るのだ。
(これ、どうしても開かないのかしら……)
 こんな事を考えつつ、シーラはごく何気なく切れこみの一部に手を触れた。
 ……ブゥン……
 シーラの手が触れた途端、低い音が大気を震わせた。合わせるように切れ込
みの内側の部分を淡い青の光が包み込み、しゅんっという乾いた音と共に光に
包まれた部分が下に引っ込む。
「……え?」
「あ……」
「開いたな」
 シーラとラヴェイトがとぼけた声を上げ、ユーリが淡々と状況をまとめる。
冷静な反応に、シーラはきょとん、としつつユーリを振り返った。
「なぁに、驚いていんだ?」
「あ……えっと……」
 とはいえ、笑いながら問われると返事に窮してしまう。口篭もるシーラの様
子に、ユーリは苦笑して見せた。
「お前なら、開けられるんじゃないかとは思ってたよ。妙な話だが、お前はこ
こから来た訳だし。出入りできるのは、ある意味で自然だろ?」
「理には、適っていますね、確かに」
 ユーリの説明にラヴェイトが独り言めいてこう呟く。言われてみれば、とい
うヤツではあるが、何となく複雑な気がしてならない。そんな思いから表情を
陰らせていると、ユーリの大きな手がぽん、と頭の上に乗せられた。
「ホレ、んな顔してんなって。入り口は開いたんだ、行こうぜ?」
 顔を上げると、ユーリは茶目っ気のあるウインクと共にこう言って微笑む。
この言葉に、シーラははい、と言って頷き。口を開けた壁に向き直った。

 暗い、何もない虚空。
 目を覚ましてからずっと、自分の中にあるのはそれだけだと思っていた。
 役割を果たすだけの存在、役割のためにだけある存在。
 それが自分――黒き翼の『守護者』だと認識していた。
 白き翼の『監視者』を護るためだけの存在。
 しかし、その『だけ』は、他ならぬ『監視者』自身に否定された。
 何かが求められている。だが、それが何かわからない。考えるとおかしくな
る。何に対してかわからない恐怖が身体を苛み、激しい苦痛に見舞われる。
(オレは、『守護者』……それだけの存在)
 こう考えると、どこからともなくそれを否定する声が響いてくる。そしてそ
の声を感じると、激しい痛みが圧し掛かってくるのだ。
(オレは……一体……なんなんだ?)
 悩んでも悩んでも、苦痛ばかりで答えは出ない。

「……安定せんな……無理もないか」
 苦悶の表情を浮かべて眠るゼオを見つめつつ、ギルは低くこう呟いた。
「存在への負荷が極端に高まっている。自己の矛盾に気づいたか」
「……う……くっ……」
 低い呟きを肯定するように、ゼオがうめき声を上げる。ギルはしばし無言で
少年を見つめ、それからふと、何かに気づいたように顔を上げた。
「……来たか。では、始まるな……亡者どもの宴が」
 低い呟きをもらすと、ギルは再び少年を見る。その視線に答えるようにゼオ
は目を覚まし、横になっていた寝台の上に身体を起こしていた。呼吸が荒く、
額にも汗の玉が浮かんでいる。それでも、少年は立ち上がろうとしているよう
だった。
「ゼオ」
「……『監視者』が……」
「ああ。都市に入った」
「行か……ないと……」
「そうだな」
「……ギル……オレは……」
「見つけて来い」
 切れ切れの言葉を、ギルは静かに遮った。ゼオは微かな困惑を浮かべて自ら
の導き手を見る。
「……見つける……なに、を?」
「自らが何者か、何者であるべきか。見出すべき時が近い」
「自らが……何者、か……?」
 淡々と告げられた言葉は、少年を更に困惑させたようだった。以前であれば
見せなかったであろう、心の動き。それが表に出るようになっている。
「そうだ。その答えはお前自身が見出すもの……否、他の何者にも与える事は
できぬものだ」
「オレが……オレ自身が? ……っつ……」
 低く呟いた直後に頭痛を感じたのか、ゼオは顔を歪めて額を押さえた。ギル
は何も言わずに、その様子を見つめている。仮面の下の表情は窺い知れないが、
瞳に宿る光は厳しいものを感じさせた。
「……オレは……『守護者』は、『監視者』を、護る者……」
「そうだ」
「でも……オレは、それだけじゃ、ない……」
「その答えを見出すためにも、行け……痛みを、恐れるな」
「……わかった」
 静かな言葉に、ゼオは間を置いて一つ頷いた。ギルはそれに頷き返し、薄暗
い小部屋を出て行く少年を見送る。その姿と気配が完全に消えると、ギルは仮
面の奥で深いため息をもらした。
「正しき在り方を選び取れ……無限の螺旋を、断つために……」
 ため息に続いてこぼれた呟きが、静寂の中に溶けて行く。

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