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   02

 街の北にそびえるファシャーム山の洞窟は、閉ざされたシェルナグアと外を
結ぶ唯一の道である。シーラもリックも幼い頃からそう聞かされていたが、実
際に向かうのは初めての事だった。わずかに残る草を踏み分けた跡を頼りに、
ひたすら斜面を駆け上がる。立ち止まる事はできない。別れ際のルフォスの態
度がそんな思いを抱かせ、二人に先を急がせていた。
 とはいえ、走り続けるのも限界がある。しばらく走ったところで、シーラは
息が続かなくなるのを感じていた。
「リック、少し、待って……もう、走れない……」
 切れ切れに訴えるとリックも足を止めた。それから、深く息をついて、そう
だね、と呟く。二人は足を止めて呼吸を整えると、ゆっくりと歩き始めた。
「シーラ、大丈夫?」
「うん……何とか……」
「そう……」
 それきり言葉は途絶え、周囲には沈黙が立ちこめる。沈黙の重さは耐えがた
いが、何を話せばいいのかは皆目見当もつかなかった。
「ね、リック……」
 しばらく歩いた所で、シーラは思い切って声を出した。
「なに?」
「あたしたち……これからどうなるの?」
「どうなるかはわからないけど……でも、とにかく今はルフォス様の言いつけ
に従おう。グラルシェの街に行ってユーリって人に会うんだ。それしかないよ」
「それはそうだけど……」
 それはわかっている。わかっているが、しかし、何故そうしなければならな
いのか、がわからない事が心を不安にさせていた。不安からつい俯き加減にな
っていると、突然リックが足を止めた。怪訝に思いつつ足を止めてそちらを見
ると、真剣な光を浮かべた漆黒の瞳がじっとこちらを見つめていた。
「リック……?」
「心配しないで、シーラ。君は、ぼくが護るから……何があっても、絶対に!」
 戸惑うシーラに、リックはきっぱりとこう言いきった。力強い声が刹那、不
安を退けてくれる。シーラはややぎこちないもののどうにか笑みを浮かべて、
うん、と頷いた。リックもうん、と頷き返し、二人はまた歩き出す。
 夕闇が迫り、周囲は夜蒼色の帳に飲み込まれつつあった。それでも二人は歩
き続ける。しっかりと握り合った手の温もりが不安を退け、前進する意志を互
いに与えていた。
 しばらく進むと、刺々しい茂みと下生えを従えた無表情な岸壁が行く手を阻
んだ。辺りは夜闇に包まれ、月が雲に隠されている点から見ても道を探す術は
無い。二人は近くの木の根方に腰を下ろし、身を寄せ合って休息を取る。状況
に対する不安は消えてはいないが、リックが側にいる、という事実がシーラに
与える安堵感は大きかった。
 そして、翌日。
「……あった、洞窟の入り口」
 夜明けとほぼ同時に目を覚ました二人は、荷物の中の保存食を齧って空腹を
紛らわせるとすぐに外との連絡路である洞窟を探し始め、茨の茂みの影に隠さ
れた扉を見つけた。扉には鍵が掛けられていたが、ルフォスの用意していた荷
物の中に入っていた鍵で容易に開く事ができた。
「なんとか、行けそうだね」
 リックが安堵の息をもらしつつ呟く。それにシーラはうん、と頷き、二人は
洞窟に踏み込もうとした。
 ……ヒュンっ
 鈍い音が風を裂いたのは、その時だった。直後に、リックが肩を押さえてよ
ろめく。
「……リック!? うそ……血が出てる……」
 突然の事に、シーラは呆然とこう呟いていた。突然飛来した矢がリックの肩
に突き刺さり、無表情に紅い色を溢れさせているのだ。
「リック!」
「だい、じょうぶ……それよりシーラ、早く……洞窟に」
「で、でも……!!」
「いいから、行くんだ!」
 戸惑うシーラにこう怒鳴ると、リックは肩越しに後ろを振り返った。そこで
ようやく、シーラは自分たちを遠巻きにしている黒衣の集団に気づく。それが、
ルフォスの言っていた『彼ら』である事は言われるまでも無くわかった。
「リック……」
「シーラ、先に行って……ぼくも、後から必ず行く。だから、君は先に逃げる
んだ」
 言いつつ、リックは持っていた荷物を強引にシーラに手渡し、それから、い
つも巻いているバンダナを解いてそれもシーラに握らせた。
「嫌……嫌よ! リックも一緒に……っ!」
 訴えかける言葉は、不意の口づけに遮られる。
「必ず行く……約束する。だから、ぼくを信じてシーラ」
 唇が離れるとリックは静かにこう言い、シーラを洞窟の中へと突き飛ばした。
直後に扉が閉ざされ、シーラの周囲は暗闇に包まれる。
「リック……リックーーーっ!!」
 絶叫に、答える声はなかった。シーラは呆然と目の前の冷たい暗闇を見つめ
る。何をどうすればいいのか、まるでわからなかった。わかるのは、一人きり
になったという認めたくない現実だけ。
「……どうして……?」
 問いかける声が暗闇に響いて消える。当たり前の平穏な日々、自分の居場所、
そして、永遠を共にしようと誓ったばかりの大切な存在。それら全てが、突然
失われてしまったのだ。それも、自分にはまるでわからない理由付けで。
「どうして? どうしてなの? あたし……あたし、何かしたの? あたしの
せいなの? ねえ、どうして……誰か答えて……教えてよ……どうして、こん
な事になるの? どうして……どうしてよおおっ!!」
 絶叫しようが泣き崩れようが、暗闇は動ずる事無く周囲に無言で立ち込める。
しばらく泣き続けて、シーラはその冷たい現実に気がついた。ゆっくりと顔を
上げて扉の方を見るが、鉄の扉は素知らぬ顔で沈黙を保っていた。
「……リック……」
 かすれた声で呟くが、突然のように返事はない。代わりに、別れ際のリック
の言葉が脳裏を過った。
『必ず行く……約束する。だから、ぼくを信じてシーラ』
「約束よ……絶対に……一人にはしないで……」
 低い呟きと共に、シーラは立ち上がった。ここにいても、どうにもならない。
そう感じたのだ。なら、今は約束を信じて先に進んだ方がいいように思えた。
「大丈夫……リックは、あたしとの約束を破った事、一度だってないんだから
……だから……絶対に大丈夫」
 何度となくこう繰り返しつつ、取り落とした荷物を拾って歩き出す。走り通
し、歩き通した足が酷く痛むものの、今は泣き言は言えなかった。そも、泣き
言を言った所で助けは得られないのだから。
 そんな事を考えつつ、前に踏み出した足が突然何も無い空間をかいた。
「えっ……!?」
 段差で足を踏み外した、と気づいた時には既に遅く、バランスを崩した身体
が無空間に投げ出される。何かに掴まろうと伸ばす手も、虚しく空をかいた。
(……リック!)
 助けて、と祈る暇も無く、突然の衝撃に限界に達しつつあった意識が自己の
存続を放棄し、意識が途絶えた。

 それから、どれだけの時間が過ぎたのか。
「う……ん……」
 不意に、光が感じられた。それが瞼越しの光、恐らくは陽の光なのは何とな
くだが感じられる。が、それとわかっていても、いや、わかるからこそ目を開
けるのが怖かった。目を開ける事で、認めきれない現実を容認させられそうで
嫌だった。その反面、今までの事は全て夢で、目を開ければ見慣れた自分の部
屋に居るのでは、という、儚い期待が目覚めを肯定する。その期待にすがるよ
うに目を開けたシーラは、見慣れない部屋の様子に重いため息をついた。
「リック……」
 呟いて、俯いた瞳が淡い煌めきを捉えた。リックとの約束の証、フィアナ石
のペンダントだ。シーラはすがりつくようにそれを両手で握り締める。
「あら、気がついたの。ちょうど良かった」
 それからどれだけ時間がたったのか、不意の呼びかけがシーラを我に返らせ
た。はっと声の方を振り返ったシーラは、見慣れない女の姿に息を飲み、身を
強張らせる。
「ん……? ああ、大丈夫よ心配しない! 別に、取って食いやしないわよ。
そんな露骨に怯えないで」
 そんなシーラに、女は飄々とした様子でこんな言葉を投げかけてきた。淡い
緑の瞳は楽しげな、それでいて優しい光を湛えてこちらを見つめている。その
光に、シーラはやや警戒を緩めていた。
「具合はどう? もう、起きられそうかしらね。それなら起きて、これ着てく
れる?」
「え……? あっ……」
 女の言葉に、シーラは初めて自分が下着姿である事に気がついた。今更なが
ら頬を赤らめるシーラに楽しげな笑みを浮かべつつ、女は手にした服を手渡し
てくれる。今まで着ていた物ではない。さらりとした手触りが心地よい、恐ら
くは絹のドレスだ。
「あの、これ……」
「あ、悪いわねあたしのお古で。とはいえ、ここで今までの格好してたら、す
ぐに茹だっちゃうからね〜。砂漠に近いってのもあるけど、ここって暑いから」
 戸惑うシーラにあっけらかんと言いつつ、女は着替えを手伝ってくれる。肌
触りはいいのだが、布の薄さと腕がむき出しというのが、妙に頼りなく感じら
れた。その頼りなさに眉を寄せるシーラの様子に女はやれやれ、という感じの
ため息をもらし、それから、丁寧に畳んだ布を手渡してくれた。リックのバン
ダナだ。
「ふうん……出来は、まあまあね。さてと……」
 ドレスの淡い青と、髪の陽光色の色合いに満足げな呟きをもらしつつ、女は
ドアの方を振り返った。
「ユーリ、もういいわよ」
 それから、軽い口調でこんな言葉を投げかけ、それに答えるようにドアが勢
い良く開いた。一拍間を置いて、がっしりとした体躯の男が一人、部屋に入っ
てくる。
「おう……どうやら、大丈夫らしいな。久しぶりだな、シーラ」
 入ってきた男はベッドに腰を下ろしたシーラに、親しげな口調でこう呼びか
けてくる。とはいえ、シーラにとっては初めて見る顔である。故に、シーラは
首を傾げつつ男の顔を見つめるしかできなかった。
「ははっ……やっぱり、覚えてねぇか。仕方ねぇな、俺がルフォスにお前を預
けた時、お前、まだ赤ん坊だったからなぁ……」
 そんなシーラの様子に、男は苦笑めいた面持ちでぼやきつつばりばりと頭を
掻く。
「俺は、ユーリ。ルフォスから、聞いた事はないか?」
 ひとしきり頭を掻くと、男は静かな口調で自分の名を告げた。そして、その
名にシーラははっと息を飲む。
「ユーリ……さん? あなたが?」
「ああ。しかし、一体何があったってんだ? お前が一人で連絡洞の中に倒れ
てるのを見たときゃ、心臓止まるかと思ったぜ?」
「良く言うわね〜、心臓に毛が生えてるくせに」
 一転、真面目な面持ちで問いかけるユーリの言葉を、黙って成り行きを見て
いた女が茶化した。
「茶化すなレヴィ! ……ああ、こいつはレイヴィーナ。俺の……まあ、連れ
合いみたいなもんだ」
「単なる腐れ縁でしょお? ま、いいけどね。そんな訳だから、よろしく」
 苦い面持ちでそちらを振り返ったユーリは、そのまま女――レイヴィーナを
紹介してくれる。二人のやり取りにきょとん、としつつ、シーラはよろしくお
願いします、と頭を下げる。
「で、真面目な話……何があったんだ?」
 頭を上げたシーラに、ユーリが改めてこう問いかけてくる。シーラは俯いて
言葉を捜し、それから、ゆっくりとシェルナグアの街と、そして、自分に起き
た事を話して聞かせた。ユーリは難しい面持ちで話を聞いていたが、話が終わ
ると、そうか、と嘆息する。
「そんな事があったか……大変だったな」
「あ、あの……ユーリさん」
 それきりユーリが黙り込んでしまったため、シーラはずっと気にかかってい
た事を問うべくそっと声をかけた。
「ん……どうした?」
「あの……リックは……あたしの他には、洞窟に誰も居なかったんですか?」
 問いに答えがあるまで、しばらく間があった。ユーリは難しい面持ちのまま、
ああ、と頷く。
「そんな……そんなはずないです! リックは……必ず、行くって……必ずっ
て、約束して……」
 思わず大声を上げた瞬間、言いようの無い切なさがこみ上げてきた。シーラ
はフィアナ石のペンダントをぎゅっと握りしめ、唇を噛み締める。そんなシー
ラの様子にユーリとレイヴィーナは顔を見合わせ、それから、ユーリがぽん、
とシーラの肩に手を置いた。
「まあ、なんだ。俺も連絡洞の向こう側まで見てきた訳じゃないからな。もし
かすると、今ごろ抜けて来てるかも知れねえぜ……だからそう、悲観するなっ
て、な?」
 静かな言葉に、シーラは俯いたまま頷いた。声を上げたら泣き出してしまい
そうだったのだ。
「とにかく、ここにいりゃあ危険はねえからな。まずはゆっくり、気持ちと身
体を休めるんだ……いいな?」
 もう一度頷くと、ユーリはよし、と言ってぽん、と背中を叩いた。暖かく大
きな手の感触が気を静めてくれる。
「さて、じゃあ、おっさんはひとまず退散するとするかね……シーラ、ゆっく
り休みな」
 軽い口調でこう言うと、ユーリはすたすたと部屋を出て行く。
「じゃね。遠慮はいらないから、ゆっくり休みなさいね」
 続けてレイヴィーナも軽い言葉と共に部屋を出る。一人、部屋に残ったシー
ラは手の中のフィアナ石とバンダナを見つめ、小さくため息をついた。

「……大嘘つき」
 シーラの部屋を出て、階段を下りるなり、レイヴィーナはユーリにこんな言
葉を投げかけていた。
「……何だよ、いきなり?」
「とぼけんじゃないの。連絡洞の先、ちゃんと見てきたんでしょ?」
 問いかけに、ユーリは何故かため息をついた。
「お見通しって訳かよ……レヴィ、これ、何に見える?」
 言いつつ、ユーリは懐から何やら黒い物を掴み出した。見事な濡れ羽色の、
鳥の羽だ。ただし、その大きさは尋常ではない。通常の三倍はあるだろうか。
「……カラスの羽? って、何よこの大きさは?」
「……連絡洞の、向こう側に残ってたもんさ。これの他にあったのは……」
 ここで、ユーリは何やらためらうような素振りを見せる。
「……ユーリ?」
「……他にあったのは、残骸だった……人間の、な」
 静かな言葉に、レイヴィーナは息を飲んだ。
「人間の……残骸? それって……」
「シーラを追い回してたっていう、黒服どもだろうな。ただ、リックとか言っ
たか……そいつらしいのはいなかったんだよな……」 
 呟きつつ、ユーリは羽の軸を摘んでくるくると回す。琥珀色の瞳には厳しい
光が浮かんでいた。
「ともあれ、俺、もう一度連絡洞の方を見てくる。シーラの事、頼むぜ」
 ひとしきり羽を見つめると、ユーリは一転、軽い口調でこんな事を言う。
「それはいいけど……結局あの子、あんたの何な訳?」
 この問いにユーリは一瞬きょとん、と目を見張り、それからにやりと笑って
こう言った。
「……お宝だよ。地獄の奥で見つけた、不思議なお宝さ」

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