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   あなたとお茶を

「……あ、」
 しまった、と思った時には遅かった。
 手から滑り落ちるように飛び出したティーカップは、床の上に落ちてがしゃ、
と砕け散る。
「……また、やってしまいましたか」
 果たしてこれで幾つ目だったかと思いつつ、ルフォスは砕けたカップの横に
膝を突く。
「一人では、満足にお茶も飲めないと言うのも、情けないものですね……」
「ほんっとうに! 司祭様の不器用さは、街の誰にも負けませんね!」
 思わずもらした自嘲の呟きに、威勢のいい声がこう突っ込んできた。嫌な予
感を覚えつつ、厨房の入り口を振り返ったルフォスは呆れたようにこちらを見
る茶色の瞳と目を合わせてぴしり、と音入りで固まる。
 いつの間にやって来たのだろうか。入り口の所に赤毛の女性が立って、きつ
く眉を寄せていた。
「……やあ、アンナ」
「『やあ』じゃないでしょうに!」
 取りあえず挨拶をして誤魔化そうと試みるが、女性――アンナはそれを無視
してこう怒鳴ってきた。厨房に入ってきたアンナはルフォスを押し退け、割れ
たカップの片付けを始める。
「……」
 こうなっては、いや、それ以前にこの場所においては、彼女に逆らう事はで
きない。それは、ルフォス自身が最も理解していた。故に、ルフォスはアンナ
の邪魔にならないように、ゆっくりと立ち位置を変える。
「ほんっとにもう……お茶は、あたしが用意に伺いますからって、いつも言っ
てるじゃないですか!」
「あ、いや、やはりあなたに甘えてばかりと言う訳にも……あなたにも、仕事
があるのですから……」
「あたしが勝手にやってるんだから、司祭様は気にしなくていいんです!」
 言いきられてしまった。こうなるともう、反論の余地はどこにもない。最初
から存在しない、とも言うが。
「はいはい、司祭様は、庭でお待ち下さい!」
 苦笑して立ち尽くすルフォスを問答無用とばかりに追い出すと、アンナはて
きぱきと厨房の中を動き始める。ルフォスは苦笑したまま、庭へと向かうしか
なかった。
 良く晴れた空と、心地よい風。外でお茶を楽しむには、最高の午後だろう。
陽射しの優しさにふと笑みつつ、ルフォスはゆっくりと、こちらはどうにか用
意できるテーブルについた。
「はい、お待ちどうさま」
 椅子に座ってぼんやりとしていると、先ほどとは一点、穏やかなアンナの声
が聞こえた。ルフォスはにこり、と笑って彼女を迎える。
「ほんとに……司祭様、無理はなさらないで下さいな。あんなに何個もカップ
を割って、シーラが帰って来た時、どんな顔するか」
 手際良く紅茶をいれつつ、アンナは冗談めかした口調でこんな事を言う。そ
れに、ルフォスはただ、苦笑するのみだった。
 アンナは街で裁縫店を営む女性で、元はこの神殿で生活していた孤児の一人
だった。二十五年前の、いわゆる『狂王戦争』で家族を亡くし、戦場で泣いて
いた所を爆炎のレッドに見出されて保護された。
 戦後、ルフォスがシェルナグアへ移り住む事を決めた時、まとまりかけてい
た養子縁組を何故か断って共にこの地にやって来た彼女は年下の孤児たちを世
話しつつ、神殿の台所を支えてくれていた。
 今では自分の店を持ち、街で生活しているのだが、台所を預かっていたシー
ラが街を離れてからはこうしてルフォスの食事の世話に出向いてくれている。
決して不器用ではないものの、どうにも料理は苦手なルフォスにとっては、と
てもありがたい存在だった。
「……どうか、なさいました? ぼんやりとして」
 ふと物思いにふけっていると、アンナは不思議そうにこう問いかけてきた。
「ああ……いえ、ちょっと。あの子たちはどうしているのかと、考えていただ
けです」
 それに、ルフォスはにこりと微笑みながらこう答えた。実際は、だいぶ違う
のだが。
「……大丈夫ですよ、あの子たちは、きっと」
 ほんの一瞬表情を陰らせるものの、アンナはすぐに笑顔に戻ってこう言いき
った。
 アンナにとっても、シーラとリックは実子同然の存在と言える。十八の時に
街の石工の青年の許に嫁いだものの、一年後に起きた採石場の事故で夫を亡く
し、その時の疲労が元で身篭っていた子供まで失ったアンナ。シーラとリック
の二人が神殿に引き取られたのは、彼女が失意から立ち直りつつあった、ちょ
うどその頃だった。
『あたしが一番、ヒマですから』
 二人の乳飲み子を抱えててんてこ舞いになるルフォスに、アンナはこう言っ
てその世話を引き受けた。当時、まだ二十歳。再婚と言う選択肢もあったはず
の彼女はそれを選ばず、二人の母親代わりを引き受けてくれた。
「そうですね……あの子たちは、とても強い子ですから」
 アンナに、と言うよりは自分自身に言い聞かせるように言いつつ、ルフォス
はティーカップを手に取る。アンナもええ、と頷いて、カップに口をつけた。
 ゆっくりと、穏やかな時間が過ぎていく。
 何か、話す訳ではない。ただ、一緒にお茶を飲むと言うだけの、時間の共有。
だが、そんな時間があるだけで気持ちが静まっている。それは、確かだった。
「……思えば、不思議なものですね」
 ふと、カップを傾ける手を止めて、ルフォスは小さくこう呟いた。
「不思議、ですか?」
 唐突な言葉に、アンナは不思議そうに首を傾げる。
「いえ……こうして、あなたとのんびりお茶の時間を過ごすというのは、これ
まではなかったように思ったものですから」
 この言葉にアンナはしばしきょとん、と目を見張り、それから、ああ、と納
得したように声を上げた。
「言われてみれば……確かに、そうですね」
 決して短い付き合いではないのに、二人でのんびりと時間を共有する、とい
う機会はこれまでほとんどなかったのだ。もっとも。
(その原因は、私にあるのですけどね)
 ルフォスの胸中には、こんな思いが存在しているのだが。
 十八年前、アンナの亡き夫から恋愛の相談事を持ち込まれた時、酷く動揺し
たのを覚えている。その動揺の理由がなんであるか、確かめる事に恐れを感じ
た彼は、半ば強引に二人の縁談を進めた。このまま神殿にいたいというアンナ
に、自分の家族を作りなさい、という正論を説いて納得させ、送り出したのだ。
 その一年後に不幸な事故が起きる事など、その時は予想すらできなかったか
ら、迷いはないつもりだった。
 いや、単に迷いを直視したくなかっただけなのかも知れない。
 それを突き詰めると、『狂王戦争』の際に失った妻の面影を、九歳年下の妹
のような少女に求めていた事実を直視しなくてはならなかったから。
 だから、あくまで兄と言う立場を維持する事で、そこから目を背けていよう
と思ったのだ。
(……若気の至り、と言って良いのでしょうかね、あれは)
 こんな事を思うと、つい自嘲的な笑みが浮かんでしまう。そして、目敏いア
ンナはすぐさまそれに気がついた。
「どうしたんです、司祭様?」
「……え?」
「おかしな笑い方して」
「そうですか?」
 完全に無意識だった事もあり、ルフォスはやや戸惑う。アンナはええ、とき
っぱり頷き、物問いたげな視線を投げかけてきた。
(さて、どうしましょうか……)
 アンナを言葉で誤魔化すのは、至難の技だ。はきはきとして、隠し事の嫌い
なアンナ。その気風の良さは彼女の最大の魅力なのだが、こう言う時にはかな
り困ってしまう。
「……アンナ」
 しばしの逡巡の後、ルフォスはずっと抱えていた疑問を口に出す事にした。
「なんです?」
 突然改まった態度に、アンナは微かに眉を寄せる。
「私の事を、恨んでいますか?」
 前後の脈絡の全くない問いだが、アンナにはその意は伝わっているようだっ
た。茶色の瞳に一瞬、困惑らしきものが浮かぶ。
「……どうして、あたしが司祭様をお恨みしなきゃいけないんですか?」
 沈黙を経て、アンナはため息と共にこんな言葉を吐き出した。
「それだけの事を、してきたように思えますから」
 それに、ルフォスは静かにこう答える。
 沈黙が、その場をふわりと包み込む。風も陽射しも暖かいのに、それが妙に
重苦しい。
 どう、答えて欲しいのだろうか。
 そんな疑問がふと過る。
 恨んでいると言って欲しいのだろうか。
 そんな事はないと言って欲しいのだろうか。
 どちらにしても、自分は彼女に甘えている。
 護りきれなかった妻の代わりにして。
 支えきれなかった妹の代わりにして。
 自分が楽になろうとしている。
 それに、変わりはないのだけれど……。
「もし、恨んでいたら、あたしはこのお茶に塩入れてますよ」
 何となく陰鬱な気分に陥っていたルフォスは、あっけらかん、とした言葉に
毒気を抜かれた。
「アンナ……」
「考え過ぎなんですから司祭様は。そんなんじゃ、すぐにハゲちまいますよ?」
 呆然と名を呼ぶと、アンナは笑いながら笑えない事をさらりと言った。茶色
の瞳に宿る光は――優しい。
「考え過ぎ……ですか」
 軽い言葉とその光が、胸につかえた陰鬱な物をとかしてくれる。それに安堵
を感じつつ、表面上は苦笑しながら問うと、アンナは笑いながらええ、と言い
きった。
「……では、少し気をつけなくてはなりませんね」
「そうそう、ハゲた司祭様なんて、想像つきませんもの」
「想像そのものを、遠慮したいところですけどね」
 冗談めかした言葉にアンナは声を上げて笑い、神殿の庭に、久しぶりに明る
い笑い声が響いた。
「……さて、それじゃあ、あたしは店に戻ります。お夕飯は、何にしましょう
かね?」
 立ち上がってテーブルの上を片付けつつ、アンナは軽い口調で問いかけてく
る。ルフォスはお任せしますよ、と言いつつ微笑んだ。アンナははいはい、と
言いつつポットとカップを乗せたお盆を持って立ち上がり、厨房へ続くドアの
前でぴたりと足を止めた。
「……司祭様」
「はい?」
「もし、司祭様が……色々な時に、ルフォス様が側に居てくださらなかったら、
あたしは、もっと弱かったでしょうね、きっと」
「……っ……」
 振り返りもせずにこう言うと、アンナはドアの向こうに姿を消した。ルフォ
スはしばし呆然と、素っ気ない木のドアを見つめる。
「……私が……居なければ……ですか」
 小さな声で呟くと、ルフォスは小さくため息をついた。
 どうやら自分は、彼女を支える事ができているらしい。そんな思いが、僅か
に残っていた陰鬱な物をとかしていく。
 支えあい、共に生きて行く。関わり方はどうであっても。
 それは、彼自身が教義の中から読み取った、精霊神の願い。
「……私は、どうやら精霊神のご意志に背いてはいないようですね」
 空を見上げて小さく呟くと、ルフォスはテーブルと椅子を物置へと片付ける。
そして明日、またここに出して、お茶の時間を過ごすのだろう。他愛もない話
をし、大切な子供たちの事を案じながら。

 形はどうであれ、支えあって生きている人と。
 大切なあなたとお茶の時間を。

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