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 樹海にも、一応は朝が来る。陽光はやや遠慮がちに深緑の海底に差し込み、
谷底の洞窟の中にもそのヴェールの一部を投げかけた。
「……ん……」
 光を感じて、ルアはゆっくりと目を開けた。毒の後遺症か、頭がまだぼおっ
としている。ルアは二、三度瞬きすると、目に入るごつごつした岩の天井をぼ
んやりと見つめた。
「ここは……オレ……いったい……?」
 熱を出して寝込んだ後の様に全身が気だるい。口の中や喉がカラカラに乾い
て、水が欲しかった。
「う……ん……」
 不意にすぐ横から声が上がり、ルアはゆっくりとそちらに視線を向ける。す
ぐ隣に、寄り添うようにして眠っていたリーンが可愛らしい声を上げたのだ。
「……リーン?」
 そっと身体を起こして声をかけると、リーンは気だるげに瞼を上げた。
「……ルア? ……気がついたの!?」
 がばっ、と勢いよく身を起こしてこちらを見上げるリーンの表情に、ルアは
不思議な懐かしさを感じていた。以前、どこかで見たような……そんな気がす
るのだ。それから、ルアは何気なく視線を下げ、
「……っ!? リ……リーン? お前……」
 柔らかく膨らんだリーンの胸を目の当たりにして大声を上げていた。
「あ……ダ、ダメ!」
 突然の大声にリーンは一瞬きょとん、とするものの、すぐにルアの視線の先
に気づき、服の前を合わせてルアに背を向けた。その声や仕種は、どう考えて
も。
「お前……女、だったのか……」
 呆然とした呟きが口をつく。
 そう、言われて見れば。そう考えれば納得が行く部分も、少なからずある。
年齢の割りに細い──細すぎる線や、声。そして時折り見せる仕種などは、女
性であるならばごく自然なものなのだ。
「身体……大丈夫?」
 取りあえず納得していると、服の前を合わせたリーンが振り返って問いかけ
てきた。
「な、なんとかな……なんか、妙に、喉、乾いてっけど……」
 つい、リーンの胸元を彷徨ってしまう視線を無理やり逸らして、ルアは途切
れがちにこう返す。
「ちょっと待ってて、水、汲んでくるから」
 その返事に、リーンは薬湯を入れるのに使った椀を片手に洞窟の外へと走り
だす。その間に、ルアは混乱した記憶を辿った。
「……そうか、あの年増にやられて……」
 気絶する直前までの記憶が繋がった途端、妙に悔しい気分になった。結局、
モルリアと名乗ったあの女のいいようにされた、という事実に気づいてしまっ
たからだ。
「それにしても……」
 リーンがどうしてああも簡単に幻術に引っかかったのか。それが、どうにも
合点が行かなかった。騎士と言えば、精神修行にも重きを置いているはずなの
だから。
「……どうしたの?」
 そこに、当のリーンが水を汲んで戻ってきた。ルアは一まず思考を中断して
椀を受け取り、乾いた喉を喉を潤すが、一口含んだ所で違和感を覚えて顔をし
かめた。
「……なんか、苦いぞ、これ」
「そりゃそうよ、薬混ぜてあるもの」
 事も無げな口調でリーンはこう返す。
「くすりい? なんだよ、それ?」
 口をへの字に曲げつつ、それでも水を飲み干してから問うと、リーンは妙に
真剣な様子でじっとこちらを睨んできた。真剣な面持ちに、ルアは一瞬気圧さ
れる。
「……自分が、どんなに危なかったか、わかってないでしょ? 致死性の毒が
身体に回ってて、一晩で持ち直したのが不思議なくらい! 本当は、そうやっ
て起きてるのだって、いけないんだからね?」
「毒?」
「あの女の鞭に仕込んであったみたいで……でも、良かった……あのまま、ル
アに何かあったら……わたし……」
 話している内に気が緩んでしまったのか、リーンの琥珀色の瞳が潤みはじめ
た。
「お、おい……リーン?」
「ごめんなさい、ルア……」
 危機感を覚えて名を呼ぶと、リーンは目を伏せてかすれた声を上げる。
「……ごめんなさい……わたしが、勝手な事したせいで、あなたがあんな目に
……本当にごめんなさい、ルア……」
 その後は泣きだすのを堪えるのに手一杯で、言葉にならないようだった。
「き、気にすんなって! 勝手な事なら、オレだってちょくちょくやってるし
さ、それに、オレが持ち直したのだって結局、お前のおかげなんだろ!? だっ
たらそれで、あいこじゃねえか! な、そうだろ?」
 こう言う時、一体どういう風に対応すればいいのか。どうにもそういう方面
に疎いルアは、取りあえず思いつくままに言葉を並べ立てていた。リーンは顔
を上げてルアを見、それから、泣き笑いの笑顔でこくん、と頷いた。
「ルアってば……相変わらず、女の子の扱い、できないんだ……」
 それから、ぽつりとこんな呟きをもらす。思わぬ一言に、ルアはえ? と言
いつつ瞬いた。
「相変わらず?」
「……覚えて、ないんだ、やっぱり……仕方ないよね……」
 リーンの表情がまた暗くなる。その様子に、ルアは慌てて記憶の中を探った。
はっきりとは言えない。だが、覚えがあるような気がするのだ。黒髪と、琥珀
色の瞳を持つ少女に。
(ええっと……どっかで、会ってるよな、絶対。でも……どこでだっけ? ち
きしょお、上手く思い出せねえ……)
「……ルア?」
 急に黙り込んでしまったルアを、リーンが心配そうに覗き込む。ルアは思わ
ずその肩を捕まえて、じっとリーンを見つめた。
 奇妙に緊迫した時間が流れ、そして。
「えっと……リィー……ナ?」
 記憶の、かなり奥の方から、一つの名前が浮かんできた。
 かなり昔の……幼い頃の記憶に。あえて閉ざし、忘れていた時間の領域に、
黒髪と琥珀の瞳の少女の面影がわずかに残っていた。
「……思い出して、くれたの……?」
 恐る恐る、という感じで投げかけられた問いに、ルアは一つ頷く。
「……名前だけだけどな」
「それだけで、いい!」
  嬉しくて仕方がない──そんな感じの声を上げると、リーンはルアに抱きつ
いてきた。薬草特有の清々しい香りが周囲に弾ける。布一枚を通して伝わる柔
らかい胸の感触に、ルアは一瞬息を詰めていた。
「でも……どうしてお前、男のかっこなんか……何で、騎士なんかやってたん
だよ?」
 記憶に残るリィーナという名の少女は、かなり元気は良かったが、それでも
ちゃんと女の恰好をしていたはず。そんな疑問から問いを投げると、リーンは
わずか、目を伏せた。
「……父上が、わたしを、自分の出世に使おうとしたから。それまで、認知も
しなかったくせに……」
「お前の親父? てーと……あ、ストレイア公爵か。出世に使う……?」
「そう……あの人、わたしを、レゼオン王子の妃にしようとして。でも、どう
していきなり自分の倍の年齢の、しかも好きでもない相手に嫁がなきゃならな
いのかって、そう思って……頭に来たから、反抗したの」
 ルアの疑問に答える刹那、リーンの瞳には強い苛立ちの色彩が浮かんでいた。
「確かに、反抗したくなるわな、それは……」
 世継ぎ王子の事を思い返しつつ、ルアは思わずこんな呟きをもらしていた。
ヴァーレアルドの第一王子レゼオン。良くも悪しくも父王に良く似た、よく言
えば温和な、悪く言えばぱっとしない人物である。悪い人物ではないが、いき
なり嫁げと言われれば、やはり嬉しいとは思えないだろう。
「そう思うでしょ? 大体、あんまりにも勝手すぎる! わたしには、ずっと
……ずっと想っていた、あなたが……いるのに……」
「まあ、勝手もいいとこだよな……って、え!?」
 何気なく相槌を打った直後に、ルアは今リーンが言った事、その意味に気づ
いて大声を上げていた。その声に、リーンも方も自分の言葉に気づいたらしく、
頬を微かな紅に染めて顔を伏せた。
「……リーン……いや、リィーナ、か? お前……」
「リーンでいい。リーンって呼んで欲しい。いい思い出がないから、リィーナ
には……」
 一つ、深呼吸をしてから呼びかけると、リーンは消え入りそうな声でこう返
してきた。
「リーン……」
「片思いだよね……わかってる。でも、想うのは、構わないって、ずっと……
そう思ってた。だから、あんまり、気にしないで!」
「あのな。それ、気にするな、って言われて、はいそうですか、って答えられ
る問題かよ?」
 早口の言葉にため息混じりにこう返すと、リーンはでも、と消え入りそうに
呟く。その様子にどうしたものかと悩みつつも、ルアはひとまず、感じた疑問
を解決する事にする。
「ま、それは、後回しでいいな。それで? ただ、親の身勝手に反抗して、男
のかっこしてたってのか? 騎士にまでなって」
 この問いに、リーンは小さくため息をついた。
「騎士になったのは、レシル伯母様の知恵。ただ男の恰好して、いきがってる
だけじゃ、結局は強引に話進められちゃうから……だから、ストレイアの姓で
騎士見習いとして登録してもらって……さすがに、疎まれたけどね。でも元々、
親子の名乗りを上げるつもりもなかったから……」
「親子の、名乗り?」
 何気なく問うと、リーンはほんの一瞬、黙り込んだ。
「わたしの母様は、スティルード家の末っ子でね。他の家に嫁ぐ事が決まった
直後に、父上にお手つきされて……わたしを、身籠もってしまった。
 ただ、相手の方……ほんとにいい人で、気にしないからって言って……でも、
ホラ、やっぱり、そういうのって肩身狭いじゃない、不義の子供なんだし。そ
れでライガス伯父様がわたしを引き取ってくれたの……その代わり、母様には
……会えなくなったけど……」
「リーン……もう、いい。悪かった、嫌な事聞いて……ごめんな」
 淡々と、何でもないように語りつつ。しかし、小刻みに震える肩が、それを
語る事が苦痛であると端的に表しているようだった。それと気づいたルアは、
できるだけ静かな口調で言いつつ、震える肩を支えるように自分の腕を回す。
(そうか、それで……お袋さんの姿の幻影に引きずられちまったのか……)
 とはいえ、話を聞いた事でリーンが幻惑に簡単に引っかかった事には合点が
行った。心の奥の弱さを突かれては、幻覚をそれと見破るのはかなり難しい。
そして、それが幻影と知った時に受ける反動もまた、大きいのだ。
「……いいの。気にしないで……」
 ごめんな、と言う言葉に小さく首を横に振ると、リーンはすっとルアの胸か
ら離れる。
「気にするなって……」
「いいの。だから……だから、さっきのも合わせて、気にしないでね? それ
で、いいでしょ?」
「……よく、ねえよ。そっちは全然、気にしない、じゃすまねえだろ!」
 明らかに作った笑顔を向けて言いつつ距離を取ろうとするリーンの手を捕ま
えて、ルアはやや憮然とこう言い放つ。
「ルア……」
「大体な……こっちの都合も聞かねえで、自己完結すんなよな! こっちにも、
それなりに言い分ってもんがあるんだよ!」
 蒼の瞳に真剣な光を宿しつつの言葉に、リーンは傍目にもはっきりそれとわ
かるほど、困惑していた。だが、琥珀の瞳には困惑と共に、何かを期待するよ
うな、そんな色彩も僅かに見て取れる。
「……うまく……言えねえんだけど……」
 離れようとしたリーンを再び引き寄せつつ、ルアは言うべき言葉を思案する。
が、生来の気質故か、どうやっても飾った言葉は出てこなかった。
「十中八九、オレ……お前に、惚れちまってると、思う……」
 愛の告白としてはかなり素っ気ないが、それが逆にルアらしい。直球の言葉
に、リーンは一つ瞬いてから呆然とルアを見つめる。
「これ以上、ややこしいの、要求すんなよ? オレ、基本的に苦手なんだよ、
こーゆーの!」
 見つめられて妙に気恥ずかしいものを感じたルアは、視線を虚空に彷徨わせ
つつ早口にこう言い放つ。
「ルア……」
 呆然と呟いた直後に、リーンの琥珀色の瞳が、揺れた。ついで、水晶のかけ
らを思わせる涙がぽろぽろぽろぽろこぼれ落ちる。
「リ……リーン?」
 突然の涙に気づいたルアは、戸惑いながらリーンの名を呼ぶ。リーンはルア
に背中を向けて、こぼれる涙を拭い始めた。
「お……おい? どーしたんだよ?」
「なんでもない……」
「な……なんでもないって……」
 これでなんでもない、と言うのはいくらなんでも無理があるのだが。
「ごめんね……だって……嬉しくて、びっくりして……どんな顔していいのか
……ちょっと、わかんなくて……」
「リーン……」
「……ごめん……ちょっと、顔洗ってくる!」
 短くこう言うと、リーンはタオル片手に洞窟から飛び出していった。
「なんか……ヘンな、感じだな……」
 一方のルアは、頭を掻きながらこんな事を呟いていたのだが。

 戻ってきたリーンは束ねていただけの髪を、一本の三つ編みに編んでいた。
表情も、何というか無理がなくて、いい。結局、今までは男装に合わせて表情
も強張らせていた事が、その変化ではっきりとわかった。
 無理を止めて自然体に戻ったリーンはやや気が強いものの可愛い、という形
容の良く似合う、ごく普通の十七歳の少女だった。まあ、普通にしてはかなり
強いが。
「……心配してるかな、マルトたち」
 取りあえず手持ちの保存食で朝食をとっている最中に、リーンがぽつり、と
呟いた。
「大丈夫だろ。なんかあったら、フェディんとこに戻るように、段取りしてあ
るし」
「……道に迷ったっていう事、わかってる?」
 どこか呆れたような問いかけに、ルアはああ、と頷く。
「シェアラなら、すぐに当たり見つけるって。もう出発してるだろ。明け方ま
でに戻らなかったら、いっぺん戻るように言ってあるし」
「じゃあ、わたしたちはどうなるの?」
「古森妖精独特の目印ってもんがあってな。それ残しながら戻ってるから、大
丈夫さ」
「ならいいけど……」
 ここで、リーンはふとある事に気がついて横目でルアを睨んだ。
「じゃあ、どうして最初から、シェアラに道を探してもらわなかったの!?」
「……」
 思いつかなかったという事実を伝えるのはやはり、プライドが許さず、ルア
は黙秘権を行使する。
「まさかとは思うけど……思いつかなかったんじゃないでしょ?」
「……」
 図星なので、黙秘権、続行。
「……呆れた……ほんと、行き当たりばったりなんだから」
 黙秘権を行使した事で、リーンは逆に事実に気がついたようだった。
「……悪かったな、行き当たりばったりで」
 何となく気まずくなって口走った言葉に、リーンはほんとにね、とやり返し
てくる。その切り返し方は、ある人物に似ているような、そんな気がしたルア
は、思わずこんな問いを投げかけていた。
「お前さ……ひょっとして、ヴィノナに似てないか、性格?」
 今の連続突っ込みと切り返し。そこから浮かぶのは、あまり考えたくはない
が、ヴィノナなのだ。
 投げられた問いにリーンはしばし思案するような素振りを見せ、それから、
にこっと微笑って、そうかもね、と頷いた。
「……早まったかな……」
 あっさり肯定され、ルアは思わずこんな呟きをもらす。
 とはいえ、今更遅いのだが。

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