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   2

 その夜、レティファ大陸北東部は数年ぶりの豪雨に見舞われた。季節外れの
雨は人々の心に言い知れぬ不安を与えたものの、翌朝には何事もなかったかの
ように晴天が広がり、太陽も何食わぬ顔で街を照らしていた。その空に人々は
安堵し、それぞれの仕事に勤しむ。
「おらおら急げよ! 昼の出発に間に合わねえぞ!」
 自治都市ラファティア一の豪商として知られるヴェノ・クォーガの店で働く
人足たちもそのご多分にもれず、昼に出発する隊商の準備に追われ、皆忙しく
走り回っていた。
「ほいよっと……親方、こいつは六番の荷でしたよねっ!?」
 その中でも一際威勢がよく、特に目を引くのがまだ少年と呼べそうな年頃の
人足だった。年齢は十七か八と言った所で、逞しさの中にも一抹の幼さを残し
ている。
「おうっ! 急げよ、リューディ!」
「わかってますって! 行くぜレヴィッド!」
「ほーいよっ!」
 場を取り仕切る人足頭の確認を取ったリューディは、相棒のレヴィッドを促
して荷を担ぎ、荷車へと運んでいく。
「お、来たか。あと、幾つだ?」
 荷車まで行くと、積み込み担当の人足頭が問いかけてきた。
「六番の荷は、これでラスト。他は問題ないか?」
「ん〜、七番の荷の流れがちと悪いんだよな……そっち、頼むわ」
「七番だな、よっしゃ!」
「おう、頼まあ! っとと、そうそうリューディ」
「え? なんだよ?」
 突然呼び止められ、リューディは怪訝な顔でそちらを振り返った。
「さっきなぁ、ミュリアお嬢さんが来たぞ。でもって、お前に会いたがってた
ぜ〜?」
 きょとん、としているリューディに、人足頭は意地悪く笑いながらこんな事
を言った。リューディはきょとん、としていた夜蒼色の瞳を一転、驚きで見開
いて、え、と間抜けな声を上げる。
「え……と、あ、あのなあっ!」
 一瞬言葉を無くすものの、リューディは直後に顔を真っ赤にして大声を上げ
た。ストレートな反応に、居合わせた人足たちがどっと笑いだす。
「なあ〜に、照れてんだよっ♪」
 傍らのレヴィッドがにやにや笑いつつ、肘でうりうりとつついてこんな事を
言う。リューディは無言でその後頭部を殴り倒した。
「遊んでるばーいかっての! 行くぞ!」
 微かな紅潮を日焼けした頬に残しつつリューディはこう怒鳴り、荷の集積所
の方へと大股に歩いて行く。
「ってて……っとに、あいつは素直じゃね〜んだから……」
 殴られた所を摩りつつ、レヴィッドはこんな呟きをもらしてその後に続いた。
その呟きを聞きつけたかのようにリューディがくうるり、と振り返る。夜蒼色
の瞳ははっきりそれとわかる殺気を帯び、レヴィッドはとっさに目を逸らす事
でそれをかわした。
(ったく、こいつら人事だと思って……)
 こんな愚痴をこぼしつつ集積所まで戻ってきたリューディは、その場の空気
に独特の雰囲気を感じて息を飲んだ。ふわり、と柔らかい、微風のような感触
──余人には感じ取れない微妙な変化が意味する所は一つしかない。
「おう、リューディ! お嬢さんが来てるぞ」
 思わず足を止めたリューディに、人足頭が笑いながら声をかけて来る。それ
にリューディが何事か答えるよりも早く、積み上がった荷物の陰から一人の少
女が顔を出した。
 ふわっと柔らかそうな陽光色の髪と、どことなくそわそわした碧玉色の瞳の
少女は、その大きな瞳にリューディの姿を捉えるとほっとした様子で笑って見
せる。豪商クォーガの一人娘、ミュリアだ。
「な……なに、してんだよ、こんなとこで!」
 駆け寄って来たミュリアに、リューディは周囲を気にしつつこんな言葉を投
げかけた。素っ気ない言葉に、ミュリアの表情が僅かに陰る。
「なあ〜にカッコつけてんだよ、リューディ」
 不意に、レヴィッドが軽い口調でこんな事を言った。
「そ〜そ〜、せっかくお嬢さんが口うるさい爺やさんの目を盗んで、会いに来
てくれたってのによ!」
「いくらなんでも、今のは冷たすぎるんじゃねーのか、この色男?」
 レヴィッドに続けて、他の人足たちもこうはやし立てる。それにリューディ
が反論しようとするのを遮って、
「まあまあ、そうとんがるな、リューディ」
 人足頭が笑いながらその間に入った。
「それより、せっかくお嬢さんが会いに来てくれたんだ、爺やさんの方は上手
く誤魔化しとくから、二人でゆっくりして来いや」
「お……親方あ……」
「ムリすんなよリューディ! 隊商と一緒に出かけちまったら、二月は会えな
いんだぜ?」
 戸惑うリューディに、人足頭と、更にレヴィッドまでがこんな事を言った。
リューディは長く伸ばしたぼさぼさの黒髪をがしゃがしゃと掻き回しつつ眉を
寄せる。
「っとにもう……どいっつもこいっつも、面白がりやがって……」
 一しきり頭を掻きむしると、リューディはため息まじりにこう吐き捨てた。
「よくゆ〜よ、喜んでるくせに!」
 その呟きにすさかずレヴィッドが突っ込みを入れ、直後に殴られた。それか
ら、リューディは人足頭に向き直る。
「済みません、親方……んじゃ、半時間だけ抜けます」
「そんな遠慮すんなって! 二時間までなら構いやしねえよ」
 済まなそうな言葉に、人足頭はにやっと笑ってこう応じた。リューディはも
う一度済みません、と頭を下げてから、ミュリアの方に向き直る。
「っとにもう……ほら、行くぞ、ミュー」
 やや素っ気ない口調でこう言うと、ミュリアは本当に嬉しそうな表情でうん、
と頷いた。無邪気な笑顔に、リューディはやや表情を和らげる。
 荷の集積場を離れた二人は、町外れの丘へと向かった。広い街を一望できる
この丘は、二人にとっては幼い頃から通い慣れた遊び場の一つなのだ。
「……ね、リューディ……」
 柔らかな草の上に落ちつくと、ミュリアが小声で呼びかけてきた。
「ん? 何だよ?」
「今度の隊商……リューディも行くのね」
「え? ああ、まな」
 何気なく答えると、ミュリアの瞳が傍目にもはっきりそれとわかる陰りを帯
びた。
「って……んな露骨に落ち込むなよっ!」
「だって……」
「あ〜の〜なぁ、隊商に行くったって街道沿いにファミアスに行って来るって、
ただそんだけだぜ? 往復で二月かかるかどうかってラクな商いなんだから、
変に心配するなよ」
 不安げなミュリアに、リューディはやや大げさな明るさでこんな事を言うが、
碧玉の瞳の陰りは消えない。ミュリアはだって、と呟いて目を伏せてしまった。
「あのなあ、ミュー……」
 そんなミュリアの不安を何とか和らげようとリューディは更に言葉を接ごう
とするが、
「だって、二月も、リューディに会えないんでしょ?」
 その試みはこんな一言に阻まれた。リューディは返すべき言葉を無くし、複
雑な面持ちで頬を掻く。
「ミュー……」
「そうでなくたって、いつでも会えるんじゃないのに……二月も会えないなん
て……」
「……」
 はっきりそれとわかる寂しさの込められた言葉の返事に困り、リューディは
ぼさぼさの黒髪をがしゃがしゃと掻き回した。何となくミュリアを直視できな
いため、夜蒼色の瞳はあさっての方へ視線を彷徨わせている。
(そりゃ、オレだって、できるなら近くにいてやりたいけどさ……)
 そうも行かないのが、今の二人の立場の相違なのである。かつては剣聖とし
て名を馳せた騎士の家の名も血筋も、御家断絶となった今では何ら価値はない。
今のリューディは、下働きの人足にすぎないのだ。
 今から五年前――ここレティファ大陸は、西方のオーランド大陸を支配する
ヴィズル帝国の侵略を受けた。現在、ヴィズル戦役と呼ばれるその戦いは、神
聖王国ゼファーグの王にして、陽光の精霊神シャルフィアスの加護を受けし聖
騎士侯であるフォレイル・ザン・ディセファードを中心として結束した十二聖
騎士侯と人々の尽力によって終結したのだが、その代価はかなり高くついた。
戦争には付き物の人命の損失はかなりの数に上り、リューディもこの戦役のた
めに両親を失っていた。
 その結果、家は断絶となり、リューディは自分と同じように身内を亡くした
孤児たちを養うべく、従兄弟のレヴィッドと共に父と旧知のクォーガの所で働
かせてもらっていた。
 そんな状況であるから、ミュリアが望んでいるようにちょくちょくと顔を合
わせる、などというのはほぼ不可能であり、本来であればこうして二人だけで
時間を過ごす事とて許されるものではない。実際、人足たちに驚異の石頭とま
で呼ばれている家令のファーマス老などは、言語道断と公言してはばからない
のだ。まあ、これは大抵黙殺されているのだが。
「……リューディ?」
 ため息をつくリューディにミュリアがそっと呼びかけてきた。
「どしたの、ぼんやりして?」
「え……ああ、別に、何でもないよ」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
 軽く答えつつ振り返ると、ミュリアは碧玉の瞳でじっとこちらを見つめてい
た。深く澄んだ碧色に、リューディは気持ちを緩める。それに伴い表情もぐっ
と穏やかになり、その変化にミュリアもほっとしたように微笑んだ。
「……リューディ……」
 座っている位置をほんの少しずらす事で距離を詰めつつ、ミュリアは小さな
声でリューディを呼んだ。
「ん……何だよ?」
「……あのね……今、思ったの」
「何を?」
「うん……このまま……」
「このまま……何だよ?」
 言葉の続きを促すと、ミュリアは甘えるように身を寄せてきた。
「このまま……ずーっとこのままでいられたらいいのにね……」
「……ミュー……」
 独り言めいた呟きに、リューディはふと表情を陰らせる。このまま──今、
この瞬間の距離のままでいる事など、現状においては不可能に等しい。しかし、
この現状は一朝一夕で打破できるものではないのだ。それとわかっているから、
リューディはミュリアの肩を抱き寄せつつ、ため息まじりにこんな事を呟いて
いた。
「そうだな……ずっと……このままなら……」
 このままならいいのにな──という呟きは、
 ……ドゴオンっ!
 突如響きわたった轟音によって遮られた。二人は文字通り夢から覚めたよう
な面持ちで音の響いてきた方、即ち眼下のラファティアの街を見やり、息を飲
んだ。
「……城壁が……」
 リューディが呆然と呟く。街を囲む堅牢な城壁の一部が吹き飛び、そこに武
装した一団が集まっているのが見えた。状況を理解できずに呆然とする二人の
眼前でその一団は街の中へと散って行き、やがて街のあちこちから火の手が上
がり始めた。
「……侵……略? そんな! あいつら、正気かよっ!?」
 翻る火の手に我に返ったリューディが叫ぶ。その間にも炎はその勢いを強め
ていった。
「くっ……ミュー、ここを動くな。オレ、チビたちを見てくるから!」
 広がる炎が自分の暮らす通りに差しかかるのを見たリューディはとっさにこ
う言って走り出そうとするが、
「いやっ! 一人にしないで!」
 ミュリアはこんな叫びと共にひしとすがり付いて離れようとしなかった。
「ミュー……」
 ためらいは一瞬、決断は瞬時。
「わかった……その代わり、オレから離れるなよ!」
 リューディは震えるミュリアにきっぱりとこう言い切った。顔を上げたミュ
リアはまだ震えていたものの、はっきりそれとわかる安堵を浮かべる。二人は
しっかり手を握り合うと、混乱に支配されていく街へ向けて走り出した。

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